今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第一夜 夢見る頃を過ぎても
《5》

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「去年、大学時代の同窓会がありましてね。当時、同じゼミにいた女性から聞いた話です。我々が学生だった頃の事ですからもう二十年以上前の話ですね」
 センセはワインで喉を湿して話を続けた。
「彼女のご実家は東京なんですがね、夏休みに実家に戻った彼女は池袋の書店でアルバイトをしていたらしいのです」
話は大学院生だった二十数年前のことだとセンセは説明した。
最初にその男がやってきたのは7月の末の土曜の夕方だったそうだ。週末だったので、前の年に短大を卒業した友人と待ち合わせをしていて、早く退けたくてうずうすしていたからよく覚えているらしい。
そろそろ交代になる五時少し前、四十半ばといった年恰好の男が自動ドアを通って店に入ってきた。着古したポロシャツに年季の入ったスラックス。全体にくたびれた外観の男は真っすぐに彼女のいるレジにやってくると、にゅっと手を突き出した。握り締めていた拳を開くと大量の五十円玉がカウンターにじゃらじゃらと広げられる。
『千円札に両替してくれ』
ぶっきらぼうにそう言うと、彼女が枚数を数えている間、神経質そうにカウンタを指で叩いていたという。
五十円玉が丁度二十枚あることを確認して千円札を渡すと、男は引っ手繰るようにして受け取り、自動ドアに肩をぶつけながら男は店を飛び出して行った。
「一度きりでしたら忘れてしまうような話なのでしょうが、それから男は毎週土曜の夕方になるとやって来たのだそうです。アルバイト仲間に尋ねてもそれ以外の曜日に現れることはないようで、『土曜日のおじさん』なんてニックネームまでつけられていたそうです」
「確かにけったいな話やな。何でそのおっさんは、そないぎょうさんの五十円玉を持っとったんやろ。それにわざわざ本屋まできて両替していく言うのもようわからん」
バリキが角煮の最後の一切れを口に持っていきながら言った。
「たとえば、五十円玉の流通調査とかちゃうか?」
 ユウやんが赤い目の竜眼揚げを頬張りながら言う。
「この明太子バージョンめっちゃ旨いわ。今年のナンバーワンヒットちゃうか」
「今年始まったばっかりやで」
「バレたか……、何の話やったっけ。あ、そや、五十円玉の話や。そのおっちゃん多分財務省の調査員やねん。あ、その頃やったら大蔵省か。で、五十円玉に特殊な塗料が塗ってあってな、本屋からどこに出回るかを調べてはったんや」
「あのなあ、そないなもん調べてどないするねん。だいたいやな、伝書鳩や鮭の放流やないねんから、特殊な塗料が付いとったって追っかけようがないやん」
「じゃあ、発信機か?」
「金がかかってしゃあないわ。第一、本屋で二十枚ずつちまちま流出させるくらいやったら、造幣局から大量に放流した方が効率的やろ」
「それもそうやな。ほな、マネーロンダリングちゃうか?銀行強盗やった金がナンバーから足がつかんように洗濯するいうやっちゃ」
「ゼロが六つか七つ少ないでしょう。第一、五十円玉にナンバーはありません」
 センセは鰤の照り焼きの最後の一切れを頬張りながら生真面目に答えた。
「俺の考えでは暗号やな」
 ビールを煽ってバリキが言った。
「土曜日のおじさんと店長は結託して店の金の横領とか何か悪いことをしてたんや。ただ、表立って会話をしてるところを見られたら共犯関係がバレてしまう。せやから、五十円玉に特殊な塗料で文字を書いて、連絡取り合ってたというわけや」
「あ、特殊な塗料ネタをパクリよったな」
「本質がちゃうわいな。連絡は毎週土曜の夕方に来ると決められとった。店を閉めてからレジの集計をする時に店長は五十円玉を確認すればええわけや。レジの五十円玉を全部広げてやな、部屋を暗くして特殊な懐中電灯を当てると、ボウっと文字が浮かび上がる仕掛けや。二十文字あったら相当な情報が伝えられると思うで。どや?」
 それを聞いていたしのぶは箸を止めた。
「でも、バリキさんの考えではセンセのお友達はその犯罪に噛んどらへんのですよね」
「そらそうやろ。いくら時効や言うても噛んどったらそんな話せえへんやろ」
「だったらおかしいんちゃいます?その人、何も知らへんからその五十円玉をレジスターに入れてしまいますよ。土曜日のおじさんが帰ってからもお客さんはまだまだ来ますやん。センセのお友達なり、他のレジの人がお釣りにその五十円玉を使うてしもたら、店長がレジの集計する頃には暗号は読めんようになってるんちゃいますやろか」
「あ」
「あ、やないで」
 ユウやんが大仰なため息をついた。竜眼揚げを片づけたユウやんは皿を返しながら暫し次のオーダーを思案している様子だ。
「なんぞ甘いもんがええなあ……。そや、正月らしく、栗きんとんとかないか?」
「げっ、呑み屋でそないなもん注文するか。しかも焼酎やで」
「何言うてるねん。甘いは旨いや。落語のネタでも酒のアテにきんとん頼む話があるやん」
「あれはクスグリでしょう。客を笑わせるためのウケ狙いじゃないですか」
「ほいよ」
 信じ難いことだが、黒地の小鉢に艶やかな山吹き色のきんとんが、こんもりと盛り付けられてユウやんの前に置かれた。
「客のニーズに応えるのが、店主の務めやからな」
「うわ、大将愛してるわ」
 嬉々としてユウやんはきんとんの山に箸を突っ込み両隣の男達を唖然とさせながら旨そうに頬張った。その勢いのまま、焼酎の湯割りをぐびぐびと喉に流し込む。
「なんやこっちが胸焼けしそうやなあ」
「あの、五十円玉の話なんですけど」
「はい、しのぶさん」
 何かワインに合う料理をと、オーダーしていたセンセは教壇から生徒を指名するみたいにしのぶに話を振った。
「土曜日のおじさんはお料理屋さんとか、旅館のご主人やったんちゃいます?」
「なんでまた?」
「ほら旅館とかの入り口に穴の空いた硬貨を紐で縛って拵えた亀とか飾ってますやん」
「よう知っとるな。しのぶちゃん、ホンマに二十歳か?」
 ユウやんのツッコミにしのぶは得意そうにポニーテールを揺らしながら続けた。
「普通、五円玉で作る人が多いですけど、おじさんは張り込んで五十円玉で作ってたんです。ところが誰かに『置物やったら鶴の方がええで』と言われておじさんもそうしようかと考えた。で、五十円玉をバラして千円札に両替して鶴を折ろかなあって……」
「別に亀をバラしてまでお札で作らんでもええやん。タバコの包装紙とかで作ってるの見たことあるで」
「えーっ。でも、『鶴は千円』って……」
センセが両手を組んで指を鳴らした。
「言いたいことはそれだけか」
 今度はケンシロウが憑依したらしい。
 ユウやんは「あーあ」と大仰なため息を一つついて、大粒の栗を口に含みながらセンセに訊いた。
「で、ふぇっひょく、ひんほうはなんひゃったん?」
「真相はわからずじまいですよ」
 ユウやんのもごもごを器用に翻訳しながらセンセは答えた。
「ほい、お待ちどうさん。豚レバーのペーストをカナッペにしてみた。これやったらワインにも合うと思うで。土台はお正月らしくかき餅や」
 さっそくセンセは一つ摘んで口に運ぶ。ほろ苦いペーストとかき餅の香ばしさが口の中に広がってご満悦の様子だ。
「五十円玉の話ですけどね。結局アルバイトを辞めるまでわからずじまい。で、同窓会で隣に座った理学棟のホームズに相談を持ちかけてきたというわけです。けど、いくらなんでも情報が少な過ぎる。なにぶん、二十年以上も前の話でもありますしね。私も諦めた次第です。解決できればまた私のお株も上がったのでしょうけど……」
「謎といえばその人なんで学生時代に相談せんかったんやろ」
 バリキがジョッキの残りを乾しながら言う。
「それは謎でもなんでもありません。あの頃の私は女子学生の憧れの的でしたから。多感な年頃の娘が恥じらって口がきけなかったとしても無理からぬことです」
 すまして言うとセンセはグラスを乾した。
「ま、寝言は布団に入ってから言うてもらうとして、確かにおもろい話やけど、答えも出しようがないわな」
 ビールのお代わりを頼みながらバリキが言った。横目でユウやんのきんとんを睨みながら、何かボリュームがあってさっぱりしたもんを、という無茶な注文をする。しのぶもお任せであまり高くないものをと頼んだ。
「そや、田舎から蜜柑がぎょうさん送られてきてん。お裾分けやから適当に食べてや」
 主人が蜜柑をてんこ盛りにした笊をバリキの前に置いた。客達は酒とは別腹と見えて嬉々として手を伸ばす。
「ほい、しのぶちゃんもおひとつどうぞ」
 絶妙のコントロールでバリキは蜜柑をしのぶに投げて寄越した。が、そこに二つばかり誤算があったらしい。一つは、アルコールの入ったバリキのアンダースローが想定以上に球速が速かったこと。もう一つは、しのぶの運動神経が想定以下に鈍かったことである。
「あっ」
 二人の声が図らずもハモった。しのぶの両手はいっそ清々しいくらいのタイミングで空を掴み、蜜柑は顔面でキャッチ。はずみで銀縁メガネは床に落下してしまった。
「うわっ、普通あれ取れへんかあ?やのうて、ごめんごめん」
 しのぶは慌てて床に屈むと顔を床に擦りつけるようにしてメガネを探った。
「メガネ、メガネ、わたしのメガネ」
「ひみつのアッコちゃんに出てくる女の子かいな」
「それはチカコちゃんです。メガネ、メガネ……」
 しのぶが律儀に答える。ツッコんだバリキは、しのぶの一人称が微妙に変化したことにまだ気付いていない。
「ああっ」
 しのぶが素っ頓狂な声を上げる。
「どないした」
「リボン……。リボン、わたしのリボン」
 丸椅子にポニーテールを引っ掛けたらしい。バリキが覗き込むと、ポニーテールがほどけて長い髪がふっさりと無造作に広がっていた。
続いてバサッと音がして「財布、財布、わたしの財布」と騒ぎだす。なんとも賑やかだ。 
と、金属がひしゃげる不穏な音がした。
「ああっ」
 再び悲鳴を上げるしのぶ。
「フレームを踏んづけてしまいました」
 情けない声を出しながら、しのぶはゆっくり立ち上がった。長い髪が顔に掛かってまるで古井戸からすっと立ち現れたお菊さんのようだ。手には九枚の皿ではなく見事にフレームのひん曲がったメガネを摘んでいる。
「うわっ、すまん。元はと言えば俺が投げた蜜柑のせいやし、ちゃんと弁償したるからな……え?え?ええっ?」
 バリキの詫びの言葉が絶句に変わった。
 しのぶはメガネをカウンターに置くと顔に掛かった髪を煩わし気に左右に振り分けた。メガネを外した瞳は思いの外につぶらで酔いも手伝ってか奥二重に変化している。なかなか焦点が定まらないのか不安げな眼差しで瞬きを繰り返していて、心なしかその長い睫毛には涙が溜まっているように見えた。不安を打ち払うようにしゃんと伸ばした背丈は一段高くなったように見え、思いの外長い髪は振り分けられて緩やかなウエーブを描きながら胸元に掛かっていた。
 男達が絶句したのも無理からぬ話だ。そこに立っていたのは紛れもない二十歳の娘だった。
「ま、座ってや」
 客商売の貫祿で主人の反応が一番速かったが口をついた言葉は来店したばかりの客に向けられたもののように間が抜けていた。
「はい」
 答えたしのぶはカウンターのメガネを見下ろすと眉尻を下げて今にも泣き出しそうな情けない顔になった。
「どれ、見せてごらんなさい」
 センセがひょいと立ち上がると、カウンターを回り込んでしのぶのメガネを摘み上げた。
「ああ、これくらいならすぐに直せますよ」
 センセは飄々(ひょうひょう)と自分の席に戻っていく。
「安心し、ああ見えてセンセ、手先はめっちゃ器用やから」
 ユウやんが太鼓判を押す。
「研究室の予算はどこも厳しいものでしてね。実験器具も大概は自分達で工作するんですよ」
 言いながらセンセは鞄の中から工具を取り出した。
「ほい、お待ちど。メガネなしで不自由やろうけど、料理は食べられるやろ」
 小鉢に厚手の衣に包まれた唐揚げが盛られて出てきた。別取りの小皿にはポン酢が張ってある。
「明石の昼網でほうぼうが安かってん。衣ににんにくを利かしてあるからポン酢で食べてみて」
「あ、戴きます。おいしそうな匂いがしますね」
 しのぶの声はやや低めの柔らかなメゾソプラノに変化している。
「どうでもええけど、標準語になってるで」
 バリキが不思議そうに言う。
「あら、どうしたんだろ?あの……、ええと……、関西弁が出てこなくなっちゃいました。あ、お財布」
 思い出したようにしのぶはもう一度屈んで、革の財布と桜色のリボンを拾い上げた。立ち上がったしのぶは、何かを思案するようにその使い込まれて年季の入った赤い革の財布をじっと見詰めている。
「あっ」
 しのぶは息を呑むような声を立てた。そのまましばらく焦点の合わない目で遠くを見つめるように目を細めていたが、出し抜けに顔を俯け、肩を震わせると『くふふふ』と妙な声を立てて笑い出した。
「な、なんや?げっ、悪酔いしよったか。しのぶちゃん大丈夫か」
 それには答えずしのぶは顔を上げた。
「あの……、五十円玉のお話ですけど本当にその謎って解けないんでしょうか?」
「なんやて」
 ユウやんの声が裏返る。
「しのぶちゃんにはこの事件の謎がわかるいうんかいな」
「ユウやんいつから事件になったんです?」
 丸眼鏡をずり上げて、しのぶのメガネの修理に掛かろうとしていたセンセが顔を上げた。
「ま、それは置いときや」
 主人がセンセを制して興味深そうにしのぶを見た。どうもさっきの『鶴は千円』とは明らかに様子が違っている。
「いえ、あの何もかも全部という訳ではないんです。ずいぶん昔の話ですし、おじさんの動機は想像するしかなくて。でも、おじさんが何をしていたのかは、もしかしたらこうかなって……」
「それがわかったというのですね」
 しのぶはセンセに向かってこくりと頷いた。

 

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