今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第一夜 夢見る頃を過ぎても
《7》

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「せやからな、人にわからんようにジョーカー以外のカードに疵を入れるねん」
 ユウやんが得々といかさまトランプの高説を垂れる。
「最初はその娘、電車の中でお祈りでもしてるんかなと思っててん。そしたら……」
 そのまま座席から転げ落ちた爆睡女子高生の話をバリキが面白おかしく話す。
「居酒屋で呑んでいる私が言えた義理ではないのですけど、日本人の戦後最大の喪失は夕御飯じゃないでしょうか。いつのまにか一家団欒という家族の基盤を我々は失くしてしまっている気がするんですよ」
 センセがしたり顔で嘆く。とりとめのない話題で酔鏡の夜は過ぎていく。仕事の愚痴や気の滅入るニュースを口にするものは誰もいない。気持ちの良い酔いがカウンターで肘を突く酔客達を包んでいた。一頻り注文が途切れたので、主人は先程から黙って何やら下拵えを始めていた。
「はい、直りましたよ」
 センセがしのぶのメガネを手の平に載せてバランスを見ながら仕上がりを確認した。
「ありがとうございます」
 危なっかしい足どりでカウンターを回ろうとするしのぶを制して、センセはカウンターを回り込んでメガネを渡した。早速、しのぶはメガネを掛けてみる。
「……めっちゃ助かりました。これないと、あたし道も歩かれへんのです」
 ちゃっかり関西弁に戻って、しのぶは礼を言った。
「うわっ、もうこんな時間。すんません、いろいろご馳走になって。お先で申し訳ないんですけど、そろそろあたし帰ります」
 しのぶはコートに手を伸ばした。
「お、そうか。気いつけてな」
 バリキが気安く手を振る。
「五十円玉の話おもしろかったで」
 ユウやんも残り少ないきんとんの鉢から顔を上げて手を振った。
「折角ですから贔屓にしてやって下さい。良い店ですよ」
 センセが主人に代わって店の宣伝をする。誰もしつこくは引き止めないあたり如何にも呑み慣らした男達らしい気持ち良さがあった。

「ちょっとだけ待ち」
 主人が仕込みの手を止めて顔を上げた。
「名古屋の知り合いから珍しいもん送ってもろてん。お裾分けやから食べていき」
 言うと主人は小皿をそれぞれの客の前に出した。
「なんや?ういろ羊羹か」
 ユウやんが首を傾げながら皿の上の物体を箸でつつく。厚さ数ミリ、三センチ四方くらいの黒くて四角いものが三切ればかり乗っていた。艶といい、箸でつつくとふるふると揺れる感触といい、確かに羊羹か寒天のような食べ物に見える。よく見ると底の方に白いものが閉じ込められるように収まっていた。
「うめごや」
「うめご?」
 バリキが鸚鵡返しする。
「鮫の皮の煮凝り。名古屋の猟師町で作られる名産品やな。ちょっとクセがあるけど酒によう合うで」
 しのぶは箸でつつくとぷるぷる震えるゼリーのような煮凝りを暫く不思議そうに見ていたが意を決したように箸を入れ小さく切って口に含んだ。微かにアンモニアの臭みを(はら)んだ醤油辛い味が広がる。
「変わってるやろ」
 主人がにっと笑う。
「ところでしのぶちゃん。あんたさっき五十円玉の話のしまいに何か言いかけへんかったか?」
 しのぶは「あ」と言って、ばつの悪い顔をした。
「あの、……」
「呑み屋では言いたいことは全部言うてから帰るもんや。言いさしで帰られたらこっちも気になって寝られへんやん」
 ぐい呑みに燗酒を注いで主人は顎をしゃくった。
「俺からの誕生祝いや」
「あの、でも、ほんとにしょうもない空想ですから……」
「そのつまらんことを平気で言えるんが呑み屋のええとこやんか」
 ユウやんが横合いから催促するように言うとカウンターを回り込んでメガネをまた外してしまう。しのぶは「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。
「さっきの推理に続きがあるんですね。それなら私もぜひ聞きたい」
 センセが同調する。
「ま、冷めんうちにどうぞ」
 主人に促されてしのぶは湯気を立てているぐい呑みを持ち上げた。一口含むと驚いたように目が大きくなる。
「つ、熱い。けどおいしい」
 慌てて一口目を喉に流して言いながら、ほうっとため息をついて目を細める。目尻が朱に染まった。
「甘いのに、凛としていて。不思議な味がするんですね」
「灘五郷の銘酒や。去年の甑倒(こしきだお)しやけど、燗で呑みごろやなと思うててん」
 主人がしたり顔で笑う。燗酒の火照りに背中を押されたのか、しのぶは(おもむろ)に口を開いた。
「あの、空想ついでにもう少しお話ししても良いですか」
「どうぞどうぞ」
 バリキが焼酎の湯割のお替りを頼みながら頷く。必要以上にオーバーアクションなその仕種がそのまま酔いの度合いを代弁していてユーモラスだ。
「土曜日のおじさんが恋をしたウエイトレスさんは、そのレストランのオーナーのお嬢さんで年の頃は十七、八。受験を控えた高校生じゃないかなって……」
 バリキが今度は呑み掛けた焼酎をぶっと吹いた。これは酔いのせいとは言えまい。
「やっぱり変ですか」
「り、理由を聴かせてや」
「おじさんがとても急いでいたからです。どうして急いでいたんでしょう?」
「そら、その娘に早く逢いたいからやろ」
 と、ユウやん。
「でも、お店は逃げませんよ。むしろ、これから好きな娘に会うのならうきうきした顔をしていたっておかしくないのに、おじさんは変にいらいらしていた。そして千円札を差し出すと引っ手繰るようにして受け取って自動ドアに肩をぶつけながら飛び出して行ったんですよね」
「ええ」
「時間は土曜の夕方、飲食店はこれからが稼ぎ時です。どう間違っても急いで行かないとお店が閉まってしまうような時間じゃありません。でも、おじさんは急いでいた。それは、お店は閉まらないけどその娘さんが仕事を終えてしまうからじゃないのかしらと思ったんです。何度かそのお店に通ううちに、少し遅い時間に行くと彼女がお店を上がってしまっていることがあって、おじさんは焦っていたんじゃないかなって」
「なるほど」
「でも、それもおかしな話ですよね。夕方までの日中はお客さんも少なくて割とお店は暇なはずです。そんな暇な時間帯だけ働いてこれから忙しくなるときにお店を上がるウエイトレスなんて普通いません。いるとすれば、そのお店の身内の人です」
「で、オーナーのお嬢さんというわけですか。でも、高校生というのは」
「土曜の夜ですよね。まさかお嬢さんが夜遊びに行くのに、ご両親が公認で家の手伝いを放免するというのも考えにくいし、何か店の手伝いより優先される用事―たとえば受験のために塾や予備校に通うと言った用事だったんじゃないかなって思ったんです」
 一頻りしんとした間があった。
「スタンディングオベーション」
 センセがやおら立ち上がって手を打った。
「けど、女子高生が塾に通ってたというケースとは限らへんのちゃうか?三十近いお姉さんがピアノの稽古に行ってたとか」
 バリキが疑問を挟む。
「そんな……、だって女子高生の方がロマンチックじゃないですか」
 しのぶが口を尖らせて抗議する。
「ええと……。なんやロマンチックの基準がようわからへんけどええ話やないか。そのおっさんの涙ぐましい努力に乾杯や」
 ユウやんはグラスを軽く上げて煽った。
「夢見る頃を過ぎても、か……。事の真相は今となっては確かめようもないけど、幾つになっても男はそういうロマンチストな一面を持ってるのとちゃうかな」
 いくぶんしんみりと言ってユウやんはうめごを一切れ口に含んだ。ほろりと広がる苦味を焼酎ですすぐ。その言葉にしのぶは頷きながらうっとりとした眼差しになると何か言いたげにじっとセンセを見やった。

「ごちそうさまでした」
 席を立つと几帳面なお辞儀をしてしのぶは格子戸を開けた。いつの間に降り出したのか舞い始めた粉雪が彼女のコートをからげてひんやりとした一月の夜気を店の中に運ぶ。
「おう、また来ぃや」
 4人の男達は思い思いに手を振って彼女を見送った。戸の向こうで彼女はもう一度お辞儀をすると静かに戸を引いた。男達はしばらくの間黙ってその黒々とした格子戸を見詰めていた。
 足元には夜気の名残が残っている。にも関わらず、酔客達の気分がほんのりと温かいのは酒のお陰ばかりではあるまい。呑み屋に通っていると時としてこういった幸福な気分を味わうことができる。
「余所さんの家のことやから滅多なことは言えへんねんけどな」
 ユウやんが珍しく歯切れの悪い口調で切り出した。
「標準語のしのぶちゃんがホンマに言いたかったことはまた別にあったんちゃうかと思うねん。あの()なりにセンセに気い遣うて遠慮したんちゃうかなあて。せやから、余計なお節介やと分かっててわしが言うで」
 ユウやんは思い切るように焼酎の残りを乾した。
「とうに夢見る頃を過ぎても、夢見ることを忘れへんかったおっちゃんもおったわけや。夢見る頃に夢を見ることを応援したってもええんちゃうかな」
 言われたセンセはじっと黙っている。
「俺も若造の戯言やて言われそうやけど、やっぱりじっくり話してみるべきやと思うわ。巧く言えへんけど、年取った時にな、悔いのない最高の人生を送った言うてる人かて、別の選択をした人生がどんなんやったかは知らへんねん。俺はいろんなことに挑戦して、結果、失敗や後悔だらけの人生になってしもても構へんと思うてる。その方がおもろいもん。ええ夢見さしてもろたと割り切るわ。せやから、俺はなんぼ声かけられてもどこかのチームの専属にはならへんねん。野球やったら野球、バスケやったらバスケだけ、他はやったことがない言うのはやっぱりつまらん」
 店の中は静かだった。備長炭の(おき)が乾いた音を立てて爆ぜた。
「わかっています。わかってるんですよ」
 センセは柔らかく笑って目の前のぐい飲みに話しかけるように呟いた。
「すまん」
 異口同音にユウやんとバリキが詫びる。
「いえ、ありがとうございます。やはりこの店は良い」
 顔を上げたセンセの表情は気持ちが吹っ切れた清々しさがあった。
「しかし、ええ呑みっぷりの娘やったな。あら、立派な酒飲みになりよるで」
 ユウやんが妙な感想を述べる。
「けど、なんや不思議な娘やったな」
 バリキがぽつりと言う。
「ええ、あの豊かな想像力と洞察は並じゃありません。正直、うちの研究室にほしい人材です」
 センセの(いら)えにバリキは首を傾げる。
「いや、それもそうやねんけど。なんて言うたらええんかな、反応速度がはや過ぎる言うか。センセが五十円玉の話をしてから、しのぶちゃんがあの答えを思いつくまで、何分もかからんかったと思わへんか」
「せやから、それがしのぶちゃんの凄いとこやねんか。大将、もう一杯だけ」
 空になったコップをユウやんが振った。
「……、大将」
 主人は何やらぼうっとしていた。
「お、あいよ」
 主人の手のひらの中にはしのぶが財布から取り出した千円札がある。財布の中に一枚きりだと言っていたその紙幣を主人はまじまじと見詰めていた。
『二十歳になったのでお酒を飲んでみたいと思って……』
 刹那、あの娘の言葉が蘇り、しのぶがこの店にやってきた経緯(いきさつ)を詮索する誘惑に駆られる。が、その誘惑を振り払うように軽く首を振ると黙って手提げ金庫にその紙幣を仕舞った。
「ほい、お待ち」
 魔法のような手捌きでユウやんの前に新しい焼酎のグラスを置く。空になったグラスを受け取ると主人は何事もなかった顔つきでそのグラスをシンクに浸けて洗い始めた。

 ─完─

 

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