今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第四夜 ユズラレハの伝言
《1》

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 盆の入りの午後―。仕込みの鍋を洗ってひと仕事終えた酔鏡の主人は空瓶の入ったビールケースを抱えて路地に出た。酔鏡ではビールは基本的にビアサーバを使った生ビールが供されるが、客のリクエストに応じるために瓶ビールも常備されている。この季節は殊更に消費が激しく、ケースの出し入れは主人の日課となっていた。
「あの、……」
 格子戸を出て、エアコンの室外機の脇にケースを下ろした主人の背中に、やや遠慮がちな声が掛けられた。
「あの、少々ものをお尋ねしたいのですが」
 些か時代がかった物言いに主人が振り返ると一人の男が立っていた。
 古い家の仏間に飾られている先々代の写真からすっぽり抜け出してきたような老人である。白地に紺絣の着物に黒い帯。足元は高らかな音を立てそうな下駄で、頭にはご丁寧に白に紺の帯が付いたカンカン帽を被っている。まるで鎌倉の文士が道を間違えて迷い込んできたようで、いっそステッキを持っていないのが不思議なくらいだった。右手に小さな籐編みのトランクと人形焼きの紙袋。左手には角張った風呂敷包みを下げていた。
「はい、何でしょ」
 周囲に誰もいないのを確かめて、主人は腰を伸ばしながら答えた。
「この辺りに、寺田という家がございませんでしょうか」
 男は四角い輪郭の顔を少し傾げるようにして道を尋ねた。帽子の下に覗く耳が人並み外れて大きく見えた。
「寺田さん?ええと、……」
 主人はじっと目を細めて記憶を手繰る。
「ああ、絵のセンセのとこかな。その方、絵を描かはるんちゃいます?」
「そうです。そうです」
 男が安堵したように頷いた。
「それでしたら、もう少し山側(北側)ですわ。あ、お入んなさい。地図描いたげましょ」
 主人は先に立って男を店内に入れてやった。主人が伝票の裏を使って地図を描いている間、男は物珍しそうに店内を見回していた。
「こちらのお店は今日も営業ですか」
 流暢な標準語で男は尋ねる。
「ええ、五時からです」
 地図を描き終えて主人が顔を上げると、男は店の壁にかかったパステル画を見ていた。気配に気付いて振り返った男と目が合う。男は両手に荷物を持ったままで立っていた。その口元が幾度か開きかけては閉じ、眼差しがこちらを伺うように向けられては逸らされた。何か言いあぐねている雰囲気を察して、老練な居酒屋店主は水を向けた。
「何ですやろ」
 男は安堵したように表情を緩ませると、
「初対面で大変不躾(ぶしつけ)なのですが、荷物を一つ預かって頂けませんでしょうか」
 と言った。左手を軽く上げて紫色の風呂敷包みを振って見せる。戸惑い顔で目を細めて包みを見詰める主人に、男は慌てたように言い繕った。
「いや、あのですな。私、これから寺田君の家を訪ねるつもりなのですが、よく考えるとこの風呂敷は余計だったと気が付いたというか、ちょっと事情があって彼に詮索されたくないのです。後ほど必ず取りに上がって一杯頂きますので、お邪魔だと思うのですがお店の隅に置いておいてもらうわけにいきませんでしょうか」
「そら、別に預かるだけでしたら、一向構わしませんけど……」
 なお訝しげに縮緬の風呂敷の風合いを見るように目を細める主人に男は早口で畳みかけた。
「いや決して怪しい物や危ない物ではありません。ごく私的なというか、つまらないもので……」
 自身に言い訳するように男の声は尻すぼみに小さくなった。
「ま、構いませんよ。お預かりしましょ」
 差し出した主人の手に男は包みを委ねた。箱か本でも入っているかのようなかっちりとした立方体で包みは思いの外に重かった。カウンターの隅に下ろした時、中で紙の擦れる音がした。
「あ、申し遅れました。私、山下と申します」
 男は手ぶらになった左手を懐に入れると黒い名刺入れを取り出した。右手の荷物を足元に下ろすと、白い名刺を一枚抜いて主人に差し出す。その所作は服装に似合わず、三十年選手のサラリーマンのように垢抜けていた。
 名刺には山下義男とあり、肩書は郷土史家と書かれていた。住所は東京になっていた。

 山下が去り、奇妙な荷物だけが残った店内で主人の仕込みは続く。冬瓜を煮込んで冷まし、そぼろの餡を作り、米を研ぎ、魚の骨を揚げる。優雅に見えて一分の隙もない精緻な演舞を演じるように、主人の手捌きは澱みなく続けられた。
 やがて、猛暑を沸き起こす日差しもようやく収まりをみせ、遅い夏の夕暮れが神戸の街に訪れる。遠くで教会の鐘の音が響き始める。それを耳にした主人の顔が、口一杯に酸っぱいものを含んだように歪んだ。
 聴け 鐘鳴りぬ
 忘れているようで決して忘れ得ぬ感傷。この古い居酒屋を開くずっと以前に受けた疵は決まって、あの鐘の音に呼び起こされて主人の心の中で羽虫のようにさわいだ。
 いざさらばうかららつねの
 日のごとくわれをなまちそ
 つねならぬ鐘の音声
 もろともに聴きけんをいざ
 あかぬ日のつひの別れぞ
 わがふるき日のうた
 美しい娘が書き残した流麗な女文字。三好達治の詩の一節は主人の胸の中に深く刺さった棘となって今も彼を呪縛し続けている。
 鐘が止んだ。主人は感傷を振り払うように首を振り、唇を強く結んだ。壁の黒いスイッチを勢い良くはね上げる。軒に下がった提灯に朱い火が灯り『酔鏡』の文字が黒々と浮かび上がった。
 いずれ語られる主人の古い疵は一旦脇に置くこととして、今夜の主人公は山下という男である。彼の再訪を待ちながら、今宵も居酒屋『酔鏡』の夜が静かに始まった。

 

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