今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第四夜 ユズラレハの伝言
《2》

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 酔鏡の夜は静かに始まったが、いつまで経っても静かなままだった。かくも準備万端抜かりなく整えて、酔客達を待ちわびているというのに人生はままならないものである。
 十分経ち、三十分経ち、六時前になっても訪う者は誰もいない。カウンターの中の丸椅子に座って所在な気に夕刊を読んでいた主人は壁のホワイトボードに目を遣った。

 お品書き
 夏!
 そうめん、冷汁あります。

 と達筆な字で書かれている。再び新聞に目を戻した主人の耳に聞き覚えのある下駄の音が響いた。遠く路地の向こうからその音は近付いてきて、やがて格子戸の前で止まった。主人は新聞を畳んで立ち上がり、格子戸が開くのを待った。やや立て付けの悪い戸を苦労して半分程開き山下が顔を出した。
「いらっしゃい」
 主人の威勢の良い声が響く。
「あ、先程はお世話になりました」
 山下はカンカン帽を脱いで、白髪の坊主頭を丁寧に下げた。
「寺田センセんとこ、すぐわからはりました?」
「ええ、助かりました」
「そら良かった。お帰りなさい。何にしはります」
「生ビールを」
 言って山下は赤い革張りの丸椅子に腰を下ろした。手に提げたトランクと人形焼きの紙袋は足元に置く。
 主人は頷くと魔法のような手際で素早く今日の一杯目のビールをジョッキに注ぎ、黒い小鉢と並べて山下の前に置いた。
「この一杯は俺の奢りです」
 主人の言葉に山下は怪訝そうな顔をする。
「俺の流儀で、その日の最初のお客さんの一杯目は俺の奢りと決めとるんです。常連さんの中にはそれを目当てに毎度開店と同時に駆け込んで来はる人もおるんやけど、今日はさっぱりやなあ」
 と主人は笑った。山下は『頂きます』と言ってジョッキを傾けた。
「盆の入りですからなあ。皆さん里帰りされておられるんじゃないでしょうか」
「かもしれませんな」
言いながら山下は箸を割って小鉢に手を伸ばした。冷蔵庫に収められていたのだろう。地肌がひんやりとしていて心地好い。
「冬瓜ですか」
「ええ、鶏のそぼろ餡にしてみました」
 箸先で柔らかく煮た冬瓜を割ると山下は掬い取るようにして口に運んだ。微かに甘い夏野菜に甘辛い餡がよく絡んでいる。針生姜の風味が舌先をよりいっそうひんやりとさせた。
「これは良い。なんだか急に夏が好きになりそうです」
 山下は笑って箸を進めた。と、何の前触れもなく格子戸が勢い良く開かれた。
「うわっちゃあ。やっぱり甘かったか」
 落胆に肩を落した世にも情けない鍾馗(しょうき)様のような大男が戸口に立っていた。
「固まっとらんと早よ入れ」
 大男の後ろに誰かいるらしく甲高い関西弁でせっついている。
「いらっしゃい。仲良うご出勤で」
 主人は威勢の良い声を張って笑いながらバリキとユウやんを迎え入れた。
「だから言うたやん。六時にもなって一番ビール狙うんは砂糖より甘いて」
 パンチパーマの男が早口に捲くし立てながら、山下から少し離れて腰を下ろす。
「アスリートはたった一パーセントの希望でも最後まで捨てたらあかんねんて」
 大仰なことを言いながら鍾馗様がパンチの隣に椅子を盛大に軋ませて座る。
「それよりおっちゃん聞いたって。砂糖いうたらユウやんなあ、トマトに砂糖かけて食べる言うねんで」
「何が変やねん。甘いは旨いや。塩かける奴の気が知れんわ」
「ま、人それぞれやし」
 ビールと付け出しを二人の前に並べながら主人は心なしか気の毒そうな目でユウやんを見遣った。
「あのう。横合いから失礼だが、私の家内の里ではトマトに砂糖をかけて頂きますよ」
 山下が遠慮がちにユウやんに声を掛けた。
「うわあ、おっちゃん、物の値打ちが分かってはるやん。良え人やなあ。ホンマもんの食通やなあ」
 相好を崩してユウやんがまたたいそうなことを言う。
「香川の坂出市ですが、あちらでは正月の雑煮は白味噌に餡入りの餅ですし、バラ寿司には金時豆を入れるそうです。そちらの方がおっしゃられるように甘いは旨いと考える土地柄みたいですな」
「いやっ、めっちゃ話の合いそうな人やなあ。初対面ですよね。わし、一度会うた人は絶対忘れへんし。ご旅行?どこから来はったん?あ、そっち座っても良えですか?」
 気安いことでは他の追随を許さないユウやんは、ろくに返事も聞かずにそそくさと席を移る。
「ああ、山下と申します。大阪に少々用事がありましたので、せっかくですから足を伸ばして神戸の友人を訪ねた帰りです」
「寺田センセって、ユウやん知らんかな。時たま来られるお客さんやねんけど」
「寺田センセ……?ああ、あの絵描かはる」
 ユウやんがカウンターの後ろの壁を振り返った。柔らかい緑を基調にした小さなパステル画が掛けられている。なだらかな丘の上に麦わら帽子を被った白いワンピースの少女が向こうを向いて立っている絵だ。萌え立つような若草の緑がことさら印象的である。
「しかし、寺田君が先生と呼ばれるのは、私までこそばゆい感じだ」
「けど、結構有名な方ちゃいますのん?絵本の挿絵とかも描かはって。その壁の絵も、ここが気に入ったいうて、タダでくれはってんけど良えのんかなあて思いましたもん」
「気の良い男ですから、気にせずもらっておけば良いでしょう」
 山下は如何にも寺田君らしいと笑った。
「今日はこっちにお泊まりですか?」
 ユウやんが冬瓜をつつきながら尋ねる。
「いや、最終ののぞみで戻るつもりです。まあ、ここを八時頃に出れば間に合うのではないかと考えているのですが」
 結構イケる口らしい山下は、気ぜわしいのを惜しむように言いながら、主人の後ろのホワイトボードを覗き込んで小首を傾げている。
「あ、あのお品書きですやろ。初めて見たらびっくりしますわな。心配いりませんよ。わしにもさっぱり分かりませんから」
「なんでやねん。夏らしいものをいろいろ用意しました言う意味やん」
「わからへんて。ええと、わし、そのれいじゅうとかいうやつにしてみよ。それ何?」
「ん?ああ、冷汁(ひやじる)やな。宮崎の名物で冷たい味噌汁やと思うてくれたら良え」
「なんや残りもんみたいやけどそれひとつ」
「ほいよ。山下さん何作りましょ。うちレギュラーメニューてないんですわ。揚げもんがほしいとか、何かさっぱりしたもんないかとか、お腹空いてるんやけどとか、具体的でのうてかまへんので、何かこんなん食べたいなあて言うてくれたら夏らしいもん作ります」
「何か軽いつまみを頂いて良いですか。あとビールのお代わりを」
「それやったら揚げ
(もん)でおもしろいのんがありますわ。それ出しましょ」
「おっちゃん、俺めっちゃ腹減ってるねん。ちょっと頼りない気もするけど、とりあえずそうめんにして」
 バリキのリクエストに主人は頷いた。
「そや、話は変わるけどセンセに紹介してもろた病院に行って来たで」
 ビールを空にしながら、ふと思い出したようにユウやんが言った。
「軽い胃炎やて。けどやっぱり病院はかんべんやな。あの雰囲気があかん。何が怖いてわし、この世で病院が一番怖いかもしれん」
「またたいそうな」
「けど、バリキにかて怖いもんくらいあるやろが」
「俺に怖いもんなんてあるかいな」
 スポーツカットの頭を撫でてバリキが笑った。
「いやなんかあるやろ。ヤクザとか病気とか熊とかゴキブリとか」
「また脈絡のないもん並べたな。まっとうに生きとったらどれも怖ないって」
「怖いといえば私、妖怪が……」
 不意にユウやんの横で山下が口を開いた。
「怖いんですか?」
 ちょっと意外そうにユウやんが尋ねた。
「いえ、好きだったんです」
 カウンターについていたユウやんの肘がかくんと外れた。

 

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