今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第四夜 ユズラレハの伝言
《5》

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「あのなしのぶちゃん。その人らはただの」
 掃除の人や―という言葉がユウやんの口から聞かれることは(つい)になかった。その瞬間、店の中は赤身を帯びた白い閃光で溢れかえり、皆が思わず目を瞑った。同時にこの世の終わりかと思うような轟音が迸り、誰もがその場に硬直した。
 そして―、気が付くと店の中は暗くなっていた。
 酔鏡から歩いて数分、豊かな杜を擁する古い神社がある。その杜の樹齢六百年の樹に落雷があったと主人がニュースで知ったのは翌日のことである。が、たった今、何が起きたかをすぐに判断できた者は誰もいなかった。轟音が引いた後には廃墟のような静けさが降りてきた。閃光の残滓(ざんし)は目の中に星のようにいつまでも瞬いて、自分が目を開いているのか閉じているのかさえもしばらくは分からなかった。そして、気が付くと店の中は闇になっていた。
「停電、か?」
 一番最初に反応したのはバリキだった。
「いややあ、やっぱりあのネズミ男にあたし取り憑かれてしもたんや」
「あのなあ、掃除のおじさんがどないやって雷落すねん」
「ユウやん、それツッコんでるのかボケてるのか分かりませんよ」
 間近で落雷を体験した客達は一種のヒステリー状態になって、口々に不毛な言葉を発している。轟音は耳を鋭敏にするらしく、格子戸を叩く雨音が先程よりひとまわり大きく聞こえて皆のパニックを煽っていた。
 と、カウンターの中に小さな火が点った。
「ないよりマシやろ。丁度、お仏壇のお蝋燭が切れたから買うて来たとこやってん。後で片付けよう思うてたんやけど丁度良かったわ」
 主人は小皿に?を垂らして蝋燭を固定すると火を点けて客達の前に置いて回った。
「ブレーカーがどうやとか言う問題やなさそうやな。ご近所みんな真っ暗や。本格的な停電みたいやで」
 いつの間にか戸口に立ったバリキが外を伺いながら言った。
「こんな暗い中、よくほいほいそんなとこまで行けたな」
「俺の目は特別製やもん。最近はサバイバルゲームに凝ってるねん。暗視スコープなしでもある程度動けんと話にならん」
「相変わらず体動かす以外に趣味のないやっちゃ」
「で、これからどうします?まあ、とても出て行ける天気ではなさそうですが」
 雨は変わらず降りしぶいている。
「料理も酒も出せるで。冷蔵庫もたちまちは大丈夫やろ。俺の手も特別製や。目瞑っとっても包丁は握れる」
 カウンターの中にも数本蝋燭を灯し終えた主人が妙なところでバリキに対抗する。食器棚の脇に山下の預けた風呂敷包みが蝋燭の火に浮き上がって見えた。
「ほな、呑み続けよか。いよいよ百物語みたいな舞台装置になってきた気がするけど」
「その話はもう良えやん」
「センセ、わし、しのぶちゃんと来たやろ。次はバリキの番やで」
「いつから順番制になったんや。俺はお化けの話なんかせんぞ」
 断固とした口調で言ってバリキは焼酎のロックを頼んだ。
「せやかて、ゲストキャラの山下さんに振るのんも気が引けるしなあ。山下さん、なんぞ怖い話知ってはります?」
 それでも聞いてしまうのがユウやんである。
「え?あ、ああ」
 山下は気のない(いら)えを返した。
「あ、すみません。少々考え事をしておりました。怖い話ですか?そうですなあ」
 蝋燭に浮かび上がった角張った顔の中で目が細められた。総じてその容貌が時代がかって映るのは、この作り物めいた舞台装置によるところも大きい。闇に充たされた店内。抹香臭い蝋燭の灯。その灯に浮かび上がる常連達の別人のような(かお)。エアコンが止まって空気は徐々に湿り気を帯び、肌にまとわりつく熱気を孕み始めている。
「怖いと言えるのかどうかわかりませんが、一つ思い出した話があります。丁度、私が考え事をしていたのはそのことで、人様が聞けば他愛のないことのようにも思えます。しかしね、私にとっては生涯で一番恐ろしいできごとだった」
 山下の前にはセンセと同じ凍結酒が出されている。グラスの中のみぞれ状の酒を一口含んで山下は意外な言葉を口にした。
「ダイイング・メッセージというのをご存知ですか?」
「ダイビング・メッセージ?」
「しのぶちゃんは黙っとり。放っといたら十連発くらいオヤジギャグかまして話止めてしまいそうや」
「ミステリーによく出てくるやつですか?」
 センセが代表して尋ねる。
「被害者が犯人の正体を示すために死に際に残すメッセージで、警察や探偵にだけわかる暗号になっていたりする」
「ええ、まさにそのダイイング・メッセージです。ただ、言葉の意味からすれば死にかけている人物が殺人の被害者である必要はありませんし、残されるメッセージも犯人を糾弾するためのものでなくても構わないはずです。広い意味では、死に行く者が残される者に託す伝言と考えて差し支えないでしょう」
 山下はハムを箸先で千切ると醤油に浸けて口に入れた。山葵の辛味がつんと鼻を抜けた。
「私、ダイイングメッセージを受け取ったことがあるのです。ミステリーにあるような死体の傍らに書かれたメッセージを読んだといった無味乾燥な類ではありません。もっと生々しいやつです」
 シャク
 山下が木の匙を回すと硝子瓶の中でみぞれの酒が崩れて音を立てた。
「目の前で臨終を迎えようとしていた私の娘が私に伝えようとした最期の伝言です」
 シャク
「娘の佳奈子は病を得て七歳で亡くなりました。生きていればそちらのしのぶさんと同じ二十歳だ。十三年前、佳奈子の臨終の折りに私は彼女からダイイングメッセージを受け取ったんですよ」
 つるりと白髪頭を撫でると山下は目を細めて外の雨に耳をすませた。
「何やら佳奈子に足止めされているような気分だ。まだのぞみの時間には少し余裕がありますし、少々まどろっこしい話になるかもしれませんが聞いてもらえますか」
 山下は凍結酒で喉を湿してから語り始めた。
「私は昭和十六年の生まれです。親父は大工でしたが体の弱かった私に跡を継がせる気はなく、金の心配がいらない勤め人にしたがりました。その希望通り私はサラリーマンになって総務一筋で退職まで勤め上げました。職場結婚したのは三十五の歳でしたから遅めでしたな。娘が生まれたのはそれから十年後、四十半ばになってました。もうほとんど諦めていたから佳奈子が生まれた時はそりゃ嬉しかった」
 山下は匙で凍結酒をかき混ぜながら口元を綻ばせた。
「よく笑う子でね。あの子がいるだけで家の中が春みたいに明るかった。それに、父親の私が言うのもなんですが、佳奈子は生まれつき異能とでも言いたくなる程、才芸に秀でた子供でした。殊に絵は凄かった。例えばまだ四つの頃、部屋に入ったら床一杯に細かく千切った折り紙を広げて嬉しそうに笑っていたことがありました。私はまた派手ないたずらをやらかしたもんだと笑ったのですが、『テーブルの上に上がってみて』とせがむんです。何かいたずらの続きがあるんだろうくらいのつもりで私はテーブルに上がりました」
 気を持たせるように山下は酒を一口含んだ。
「テーブルから床を見下ろしたあの瞬間は死ぬまで忘れられないでしょう。床一杯にね。点描画が広がっていたんです。夕日に輝く海、海岸にしゃがんでいる少女と傍らに佇んでいる男。夏に連れて行った江ノ島の風景そのものが、色紙のわずかな色の濃淡で精緻に表現されていた。あれはまるで印象派のスーラの点描画を見ているようでした」
 シャク
 凍結酒が匙に崩される音が殊更に響いた。まるで店自体が耳をそばだてているように静かだった。
「大仰なことを言うやつだとお思いでしょうな。まあ、あの光景は見た者でなきゃわからない。どう言い繕っても誇張に聞こえちまいます」
 山下は乾いた笑いを漏らした。
「才能に限らず佳奈子は総じて早熟な子供でした。世間には大人に叱られまいとして大人の顔色ばかり窺う子供が時たまおりますけれど、あの子は大人の顔色を読むんです。正確に顔色を読んで私や家内が何を考え、どうすれば喜ぶか、その小さな頭でちゃんと答えを導き出すんです」
 シャク、シャク、シャク、薄黄色いみぞれの酒を崩す音が神経質に響いた。
「誕生日やクリスマスに何が欲しいかそれとなく尋ねると、的を射るように私達が買い与えてやりたかった品物がその口をつくのでずっと不思議でした」
「何か特別なからくりでもあったのですか」
 センセが尋ねた。
「いえ、特別なことは何も。ただあの子は目も耳も鋭かっただけです。私達夫婦の会話。家内がご近所さんとする会話。私や家内の電話。まさか聞いていないだろうと思うような大人の会話をあの子はよく聞き、大人の表情をよく見た。そして驚くほど理解していた。盗み聞きではありません。わかるまいと思って大っぴらに喋っていたのですから。そんな会話の端々で、私達が何をあの子に望んでいたのかあの子なりに探っていたようです」
 言葉を切って山下は蝋燭の炎を見詰めて溜息を一つついた。

 

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