今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第四夜 ユズラレハの伝言
《6》

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「甘え下手な子でね。人形のお店のセットが欲しいと思っていても、その言葉を呑み込んで絵本がほしいと口にするようなことがしばしばあった。あ、これは譬えが拙かったか。佳奈子は絵本や童話は大好きでした。面白い癖がありましてね。読み聞かせをしてやると、必ず続きの話を考えては聞かせてくれるんです。主人公の少女がいきなり大人になっていたり、舞台が童話の世界を飛び出して浅草になったり、別の童話の登場人物が乱入してきたり、設定は突飛なんですが話の筋はしっかりしていてね。いつの間にか私は続きの話を楽しみにしながら絵本を選ぶようになっていた」
いや、親馬鹿ですな―山下は笑った。
「そのうち自分で作った物語も聞かせてくれるようになったから、あの子には国語の才能もあったのかもしれません。他の教科の才能は未知数でしたけれど、算数については忘れられないできごとがあります。従姉が遊びに来た時、持っていた数学パズルの問題を佳奈子に出したのです。大人げない話だが、中学生の彼女は何事にもそつなく答えてしまう佳奈子に対抗意識を燃やしていたらしい」
「中学生向きの問題ですやろ。大人げないにもほどがあるわ」
 ユウやんが笑った。
「まあなぞなぞか、クイズのような問題でしたから。確かこんな問題でした。本当のことしか言わない人が住む正直村と嘘しかつかない人が住む嘘つき村が隣り合わせにある。あなたは村境で一人の男に出逢った。質問を一つだけしてどちらの村の人間か言い当てるには何と尋ねますか?で、佳奈子はこう答えたんです」
『佳奈ちゃんなら今日は良い天気ですねって言うよ』
「従姉は佳奈子が問題を取り違えていると笑いました。これは挨拶の仕方の問題じゃないと。が、佳奈子は平然とこういったのです」
「今日が本当にお天気なら正直村の人は『そうですね』と答えるし、嘘つき村の人なら『いいえ』と答えるはずだって」
 軽い拍手が起きた。センセが山下の方に身を乗り出す。
「お見事。お嬢さんは科学の素養がおありだ。事象を評価するのに今日の天気のような客観的な物差しを用いるのは科学の基本です。お嬢さんは本能的にそれを知っていたようだ」
 山下は満更でもない笑みを浮かべて酒を干すと、主人にもう一杯を注文した。
「元気だった佳奈子との最後の想い出はここなんですよ」
 床を指差す山下に客達は怪訝そうな顔をした。
「小学校初めての夏休みに関西を旅行しました。神戸にも足を伸ばして、寺田君の家族と一緒に六甲山の牧場に行ったりしてね。絵の好きな佳奈子は特に寺田君と話が合ったようだ。牧場の草の上に並んで熱心にスケッチしていました。……、それが元気だった佳奈子との最後の想い出です」
 目の前に出された凍結酒に匙を差しながら山下は言った。
「旅行から帰った夜。佳奈子は高熱を出しました。ひきつけのような発作を起こして泡を喰った私達は救急病院に駆け込みました。それでも小さな子供のことです。そういうこともあるだろうくらいに高を括っていたのです。しかし、現実はそうではなかった。大きな病院で精密検査を受けるように勧められ、検査の結果はすぐにでも入院するようにというものでした。月並みな譬えですが目の前が真っ暗になっちまった」
 心なしか蝋燭の灯に浮かぶ山下の影が濃くなったような気がした。
「気が遠くなるような確率でしか発症しない難病だそうです。病名を聞かされましたが正直覚えていません。まあ、死神に名刺もらったってありがたくもありませんが、余命は半年と聞かされれば、それ以外の情報はどうでも良いと思えました」
 また一口、凍結酒を含んで山下は口を開く。
「ユズリハという木は春に若葉が出揃うと古い葉が一斉に落ちるそうです。人間だってそうじゃなきゃいけない。ユズリハよりユズラレハの方が先に落ちちまうなんてあっちゃいけない」
 山下は何かを言いあぐねるように言葉を切った。唇を湿したり、匙で凍結酒をかき回したりしてしばらく逡巡していたが、やがて思い切るような顔になって口を開いた。
「佳奈子が息を引き取るまで私は数えるほどしか病院に顔を出しませんでした。何だかだと理由をつけては家内に任せきり、たまに顔を出してもろくに話もせず、それどころかあの子とまともに顔も合わせず、医者の話だけ聞いて帰ることもありました」
 シャク
匙をかき回す音が虚ろに響いた。
「ええ、わかってます。体の良い現実逃避ですよ。痩せ細っていく娘を見るのが怖くて、見なければ全部嘘になるとでもいうように逃げ回っていたんです。酷い父親だ」
 客達の間で感想とも溜息ともつかない声が漏れた。
「だから最後の最後で罰を受けた。逃げ続けた罰として一生忘れられない伝言を受け取る羽目になった」
 シャク、シャク
「病院に行ってやって欲しい。家内がたまり兼ねたように切り出したのは年が明けてだいぶ経った頃でした。何か欲しがっているものがあるようだ。それを私から聞き出してやってほしいと。その声は懇願するようでしたが目は恨めしげにじっとこちらを見詰めておりました。『そのうちに』とは言わせない気迫を感じて私はしぶしぶその週末に病院に向かいました。外は寒かったが病棟は心地好い温度に保たれておりました。にも拘らず、あの病室に入った途端に背筋がぞくりとしたのはどういうわけでしょう。佳奈子のベッドはカーテンに遮られていて中の様子は窺えませんでした。カーテンをそっと開いて中を覗くと骸骨のように痩せこけた三歳くらいの少女が首まで布団を被って眠っていました」
『おとう……さん』
「物音に気付いて少女はうっすらと目を開きました。そして私に気付くと、嗄れた老婆のような声でそう言ったのです。私はてっきり病室を間違えたと思って、慌てて枕元のプレートを覗き込みました」
山下佳奈子―、間違いなくプレートにはそう書かれていた。
「虚ろな目を向けてくる娘から逃れるように後退りすると、あろうことか私は病室から逃げ出したのです」
 格子戸には相変わらず雨が降りしぶき、雷が遠くで鳴り続いている。店の中だけがしんと静まり返っていた。
「主治医から説明された佳奈子の容体は最悪でした。未だ意識が残っているのが奇跡的だと何の慰めにもならない言葉を告げられたのです。けれど、その言葉が私の背中を押してようやく病室に足を向けさせました。会うなら今しかないという想いに叱咤されて私は再び病室に入ったのです」
 山下の纏う影がまた一段と濃くなった気がした。
「佳奈子の眼差しは焦点が定まらず、もう私の姿も見えていないようでした。が、『佳奈ちゃん』と私が呼びかけると不意に彼女の口元が引き攣り何の感情の光も宿していなかった眼が微かに揺らいだように見えました。急いで私が彼女の枕元に寄るとベッドの上でわずかに身じろぎをして娘は私の姿を捉えたようでした」
『おとうさん』
「意外にはっきりとした声で佳奈子が言いました。が、その一言と一緒に精気まで零れ落ちたかのようにその目はみるみる光を失っていきました」
 『何か欲しいものがあるんだって?』山下はそう話しかけたと自嘲気味に言って舌を凍えさせる酒を一口飲んだ。
「なんて間の抜けた、そして実のない言葉だったでしょう。だが、それがその時の私の精一杯の言葉でした。弱々しく口を開いて佳奈子は何か言いかけましたが、すぐに咳き込んで語尾が途切れました。喋らせてはいけないと思い、私は佳奈子を抱き起こすと背中をさすってやりながら『何も言わなくっていいよ』と何度も呟きました。佳奈子はヒーッ、ヒーッと悲壮な息を漏らしていましたが暫く抱いてやっていると落ち着いたのかそれも止みました。私がそっと佳奈子をベッドに戻してやろうとした時、私の耳元でその声が囁かれたのです」
 『ごめん……なさい』
「言葉とは裏腹に老婆のように嗄れて凄味のある声に私は竦みました。この期に及んで何を詫びることがあるというのでしょう。甘え下手な娘の性格を考えると、その詫び言葉が実は恨みの言葉の裏返しじゃないかと私には思えて仕方がなかった。不意に腕の中の佳奈子が重たくなった気がして、私はたまらず娘をベッドに戻しました」
 『でも、……かなちゃんね』
「凄惨なという言葉が似つかわしい笑みを浮かべて佳奈子はうわ言のように呟きました」
 『イマタ……』
「佳奈子は続けて何か言いかけました。が、また咳き込みました。気力を振り絞ってその咳を呑み込むと、物凄い目で私を睨んでこう言ったのです」
 『……タタルノ』
「『(たた)るの』―娘ははっきりとそう言いました。まるで私の不実をなじるようなその一言に私は竦み上がりました。これは罰だ。病みついた娘から逃げ回り、寂しい想いをさせ続けた私に与えられた呪いだと思いました。(くら)く済いようのないその声音に、祟るというその言葉に、私は呪いを()けたのです」
 また一口、山下は酒を呑んだ。
「佳奈子はすぐに咳き込んで老人のような形相に顔を歪めました。が、私は金縛りにかかったように体を動かすことができず、じっと娘を見詰めているばかりでした。その私に叩き付けるように佳奈子はまた言葉を吐き出しました」
 『……、めえじゃんか』
「不明瞭に掠れて全ては聞き取れませんでしたが、近所の悪童がよく口にする悪罵、恐らくは『当たりめえじゃんか』と浴びせられてますます私は心を凍らせました。当たり前―そうだ。私は罰を受けて当たり前だ。病苦に喘ぐ娘を見捨てたのだから当たり前だ。私は自分が娘を見捨てて逃げ出していたことをその時はっきりと自覚しました」
 山下はカウンターに両肘をつくとうずくまるようにその上に額を載せた。
「それが……、佳奈子の最期の言葉になりました。佳奈子はそのままひきつけを起こしたようにもがきだして、慌ててナースコールを押したのですが手遅れでした」
 『佳奈ちゃんね。祟るの』
 私を睨み据える冥い目とともに、ユズラレハはユズリハに凍えるような伝言を遺こして逝ってしまったのです―言葉を吐き出すと山下は凍結酒を呑み干した。

 

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