今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第四夜 ユズラレハの伝言
《7》

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 店の中の闇が重く沈んで濃さを増したような気がした。
「ま、まあ。他人のわしが言うのも無責任な話やけど、気にし過ぎん方が良えのんちゃいます?」
 ユウやんが遠慮がちに口を開いた。
「大人でも重病で譫言を口走ることはあるもんや。まして小さな子供さんやったら自分でも何言うてるのか分からんこと口走ったりするもんやて」
 が、山下は淋しそうに首を振った。
「確かにその直後、娘の意識は混濁しました。でもあの瞬間、佳奈子には私が見えていましたし言葉もはっきりしていた。あの伝言は私に宛てられたもので、明確な意志もあったと思うのです」
「せやけど……」
 バリキが焼酎のロックのお代わりを頼みながら言った。
「ラグビーの試合とかでクラッシュした時に譫言をよう聞くけど、呂律が怪しうて何言うてるんかわからん時がありますよ。言おうとしてることははっきりしとっても聞き違えるいうのはありそうやと思います」
「それは私も考えました。むしろそれに縋りたかった。でも思い付かないんですよ。『佳奈ちゃん祟るの。当たりめえじゃんか』一体何と聞き違えたというのでしょう」
「うーん」
 考え込むバリキの横でセンセが手を打った。
「a total(タータル) measure(メジャー)―つまり、『完全な案』と言ったのではないでしょうか」
「って、なんで英語やねん」
「いや、日本語という思い込みが目隠しをしているのかもしれません。例えば……」
 センセはしのぶの真似をして胸の前で手を組んでうっとりとした目付きになった。が、蝋燭に浮かぶその姿は死神博士が(しな)を作っているようにしか見えず常連たちを戦かせた。よく見ればその目はうっとりというより単なる酔っ払いのそれにしか見えない。強い酒にさすがのセンセも些か過ごしたようだ。
「佳奈子さんの向かいのベッドにはアメリカ人の少女が入院していたのです。年の近かった二人はあっという間に仲良くなり……」
「頼むから裏声で喋るんやめて」
「ええっ、あたしそんな喋り方ちゃいます」
「山下さん、真面目に悩んではるねんから……」
 センセの声は常連たちの機銃掃射に晒された。
「だいたい、『完璧な案』って何なん?」
「ええと、山下さんは佳奈子さんに『何か欲しいものはないか』と尋ねられたのですよね。それに対して佳奈子さんは予てから欲しいものがあったのです。それで、『私には完璧な案がある』と言いかけたところで……」
「うわっ、誰か止めて。整理するとアメリカ人と仲良くなった佳奈子ちゃんは英語が喋れるようになっとって、久しぶりに会ったお父さんに、つい英語で喋ってしまったと」
「はい」
「裏声はええて。なんでネイティブ日本人のお父さんに英語で話しかけるねん。却下や」
 バリキが言下に判定を下した。
「わし思うんやけど、その声は佳奈子ちゃんの声やなかったんちゃうやろか」
 ユウやんがハムの最後の一切れをつつきながら言った。
「また、地縛霊が憑いとったとか、しょうもないこと言うんちゃうやろな」
 バリキが身構えた。
「ちゃうちゃう、まっとうな話や。山下さんはその日病院に行く時に内心びくびくしてはったんとちゃいます?理由はなんであれ、ほとんど娘さんに会いに来んかったんや。恨み言の一つや二つ言われてもおかしない。いや完全に嫌われてしもて、今さら何しに来たんとか言われたら嫌やなとか、逆にあんた誰やと冷たい目で見られたらどないしよとか、いろいろあぐねてたんとちゃいます?」
「確かに考えていました。病室に入るのを何度も躊躇ったぐらいですから」
 その言葉にユウやんは頷いた。
「佳奈子ちゃんはその時、何か言わはったんやと思います。けど、山下さんは変わり果てた娘の姿に気を奪われて何と言ったか聞き取れてへんかった。上の空のまま自分が言われたら一番嫌やと思う言葉に無意識のうちに置き換えたんちゃいますやろか?せやから、わしその声は佳奈子ちゃんの声やのうて自分を責める山下さんの心の声やったんちゃうかと思いましてん」
「なんやまっとうな意見言う時もあるんや」
「いや、これがわしの地やて」
 ユウやんはそっと山下の横顔を見遣った。
「確かに一理あります」
 凍結酒を口に含みながら苦いものを飲み下すように山下が言った。
「何度かそう思おうとしました。でも、やはり違うんです。佳奈子は確かに『祟るの』と言ったのです」
 山下の言葉は(かたく)なだった。
「ああっ」
「な、なんやねんしのぶちゃん」
「あたし、えらいこと思い付きました」
「く、空気読みや。ぜったいその『えらいこと』は今言わん方が良えから」
 バリキが止めにかかる。
「いや、そやかて聞いて下さいよ。みなさん佳奈子ちゃんがえらい大人びた子供やったいうことを忘れてはるんちゃいます?」
 常連達は予測不能な脱力感の襲来に身構えた。
「大人のしてることに背伸びしてでも混ざりたい年頃ですやん。『たたるの』ではなくて、『わかるの』と言わはったんちゃいます?」
 ?燭の灯にしのぶのどや顔が浮かんだ。
「次の言葉で山下さんは『めえじゃんか』しか聞き取れんかったんですよね。それもそのはずです。そもそも、その前の言葉はなかったんですよ。それを似た言葉で補おうとして『あたりめえじゃんか』と思ったことが袋小路に繋がったんです」
「で?」
 おざなりな口調でバリキが訊く。
「佳奈子ちゃんはこう言いたかったんちゃいます?『わかるの、マージャンが』だから今度は混ぜてねって」
「そのシチュエーションで言うことかい」
 バリキが溜息をつくように言った。山下が元気なく笑った。
「いや、本当につまらない話をしてしまった。場を盛り下げてしまって申し訳ありません」
 言って山下は席を立とうとした。
「ちょっ、ちょっと待って。まだ雨足も強いですやん。それにこのまま帰られたら関西の土地柄疑われそうや」
 ユウやんが恨めしげにしのぶを見る。
「わしらにもう一回チャンス下さい。バリキ、しのぶちゃんのメガネ外したり」
「そうか、最初からそうすれば良かった」
 怪訝そうな顔をする山下を尻目に『おう』と(いら)えてバリキはすっとしのぶの背後に立つと銀縁メガネを取り、ポニーテールのリボンを解いた。
 長い髪が重たげに肩に落ち、その先がカウンターに広がった。その髪を振り払おうともせず、流れるに任せたまましのぶはゆっくりと顔を上げた。両の手がカウンターの上を滑るように動き、胸の前で祈りを捧げるように軽く組まれた。
 リン
 軒先に下がった風鈴が鳴った。格子戸を叩く雨音が心なしか遠退いた気がした。
「……ごめんなさい」
 小さな声がした。あどけないその声に驚いて山下が顔を上げる。蝋燭の灯の向こうに自分を見詰めるつぶらな瞳があった。揺らぐ炎に陰影を濃くした黒髪。それに縁取られた面長な顔立ち、笑ましげに端をくっと上げた小さな唇。初めて見るはずだのに、その面差しにも、物言いたげな眼差しにも、見覚えがある気がして山下は奇妙な懐かしさを覚えた。
「でも、考え過ぎだよ」
 声がまた響いた。決して大きくはないその声は降りしぶく雨音にかき消されることもなくよく通った。
「だって七歳の女の子がたたるなんてことば、ふつう知らないよ。知ってたってそんな時に使うはずないじゃない」
 小さな唇は哀しそうな笑みを浮かべた。
「それに『当たりめえじゃん』なんて言葉も一度だって使ったことないでしょ。せきをして苦しい時にいきなり出てくるわけないよ」
 言って今度は少しおかしそうに笑った。
「あの時、何か欲しいものはないかって聞いてくれたでしょ。すごくうれしかったの。だって、もう(せん)からずっとほしいものがあったから」
 しわぶきひとつ聞こえない静まり返った店の中で、そのあどけない声は響く。
「でもきっと、それはおとうさんもおかあさんも欲しがらないものだと思ったから、先に謝ったの」
 『ごめん……なさい』―って先に謝っておいたの。そう言ってまた笑う。よく笑う子でね。―山下の言葉が客達の脳裏に蘇った。
「さいしょは、ふつうに『妹が』って言いかけたんだけどせきでうまく言えなかったから……」
 言葉を切って大きく息を吸い込んだのだろう。蝋燭の炎が今にも消えそうなほど揺らいだ。その炎の向こうで小さな唇が一息に動いた。
「佳奈ちゃんね、トトロのメイちゃんがほしかったの」
 炎が震える。

 

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