今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第四夜 ユズラレハの伝言
《8》

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「わたしが死んだらおとうさんも、おかあさんもきっと悲しむ。でも、あんな元気な妹が生まれたら悲しい気持ちが軽くなるかなって思ったから」
 不意にその目に涙が溢れた。
「わたし、死にたくなかった。もっと、おとうさんやおかあさんと一緒にいたかった。でも、どんどん体が苦しくなって、思うように動かなくなって、もうすぐ死ぬんだってこともわかってた。だから妹がほしかったの。わたしがいなくなってもおとうさん達が悲しまないように。わたしの代わりにかわいがってもらえるように」
 引きも切らずに雨は降りしぶく。遠雷(おんらい)は時に近くまた遠く地を揺るがし、夜の闇に赤く瞬く。涙を溜めた瞳はそれでも揺らぐことなく真っ直ぐに山下に向けられていた。
「おとうさん、わたしをきらいにならいで」
 すがるような眼差しが山下を見詰めた。
「なるわけないじゃないか」
 山下もその目を見返しながら言い放った。
「でも、わたし長いことおとうさんを苦しめたから」
「なるわけ……ないじゃないか」
 山下の声は震えながら掠れた。―子供を嫌いになる親がどこの世界にいる。
「ならもう自分をいじめるのは止して。わたしのことで苦しむおとうさんを見たくないよ」
 山下は肩を震わせて項垂(うなだ)れた。
「今でも童話を書いてるんでしょ。わたしお父さんのおはなし大好きだよ。だから、わたしのことで止めるなんていわないでね」
 山下は俯いたまま低い声で泣いていた。その声は切れ切れに続いていたが、やがて人目も憚らない声に変わった。
「おとうさん」
 声を上げて泣いていた山下はその声に顔を上げた。すぐ目の前に二十歳になった娘が立っていた。白く細い指で彼女は山下の老いた手を握って呟いた。
「おとうさんとおかあさんの子供に生まれて良かった。わたしとっても楽しかったよ」
 横なぐりの雨が一頻り格子戸を打って潮のように引いていった。いつの間にか遠雷も止んでいる。二度三度またたいて、天井の蛍光灯が点った。ブーンという冷蔵庫のモーター音がやたら耳についた。
「な、なんやったん?」
 バリキが見知らぬ場所に放り出されたような顔で店の中を見回した。
「わしの聞き違いやなかったら、童話がどうとかって言うてたけど……」
 ユウやんもおそるおそる口を開いた。
「聞き違いじゃありません。私は佳奈子に童話を書いてやっていました。新しい話を書くとそりゃあ喜んでくれてね」
 山下は畏怖するようにしのぶを見詰めながら言った。
「あの子が亡くなった後も、私は童話を書き続けていました。そうしていればいつか天国のあの子も許してくれるような気がしていましたから」
 山下は気を取り直すように凍結酒のおかわりと何か肴になるものを頼んだ。
「佳奈子はよく『おとうさんのおはなしが本になったらいいのに』と言ってくれてました。まあ、子供が言うことですから夢みたいな話です。でも、確かにそれは私と佳奈子のいつか叶えたい夢ではあったのです。自費出版ででも本にしようと思ったことが何度かありました。ただそれを実現しようとする度に最期の言葉が蘇ってくるのです。あの引き攣った目で睨む娘の顔がそんなことは希んでいなかったと私に思い知らせるのです」
 山下はしのぶの方に向き直り丁寧に頭を下げた。
「夢を見させてくれてありがとう。しかし、肝が冷えました。まるで娘が生まれ変わったみたいに誰も知らないはずの童話のことをあなたは口にした。刹那、私は幽霊を信じそうになってしまいましたよ」
 言って山下は悪戯っぽく笑った。
「あの風呂敷包みに気付かれたのですね」
 山下は主人の後ろに置いてある紫色の縮緬の包みを見遣った。
「ごめんなさい」
 しのぶは身を縮めて頭を下げた。
「夢中だったんです。誤解を解きたくて……。でもあんなやり方、卑怯でした」
 項垂れたまましのぶは涙声で詫びた。
「ちょっと待って下さい。私は責めてるんじゃありません。いや、これは私の言い方がまずかった。こちらこそ申し訳ない」
 山下はしのぶの肩を優しく掴んだ。それでもしのぶは頭を上げなかった。彼女のスカートの膝にこぼれ落ちる滴がしみを作った。
「あの風呂敷があそこに置いてあるのに気付いたらたまらなくなったんです。佳奈子ちゃんはそんなこと思ってない。息を引き取る間際に自分のことよりおとうさんのことを心配している女の子がそんなこと言うはずがないって。でも軽率でした。ごめんなさい」
 言って肩を震わせたしのぶの頭を山下は優しく撫でた。
「あなたは本当に優しい娘さんだ。ありがとう。あなたは佳奈子が一番喜ぶことをして下さったんです。なんで詫びる必要がありますか。さ、頭を上げて下さい」
 しのぶの頭を撫で続ける山下の目尻からも涙が流れていた。しのぶは恐る恐る頭を上げて山下を見上げた。ポケットから木綿のハンカチを出して山下はしのぶの涙を拭った。
「ありがとう。もう泣かないで」
 山下は自分の目尻を乱暴に擦りながら笑った。その笑顔を見てしのぶもようやくへの字に結んだ口元を緩めた。
「あのう」
 ユウやんが遠慮がちに声をかけた。
「盛り上がってるとこ申し訳ないねんけどな。残りの客と大将を代表して言わしてもらうで。お二人が(なん)の話をしているのかさっぱりわからへんねんけど」
 言われたしのぶはきょとんとした顔になった。それから山下と目を合わせると二人してくすくす笑いだした。
「うわっ、しのぶちゃんめっちゃ根性悪う。どうせわからんわしらの方がアホですよーだ」
 ユウやんの言葉にしのぶはようやく笑いを収めて真顔になった。
「ごめんなさい。わたしそこに置いてある風呂敷包みを見て、はてなと思ったんです」
「ちょ、ちょっと待って。せっかく謎解き聞かせてもらうんや。酒と肴を揃えたいやん」
ユウやんが手を挙げて制した。間の良いことに山下の前に肴が出された。
「叩きオクラと茗荷の刻んだのんを焼き味噌で和えてみてん。味が濃いからちびちびいけますよ」
 主人の言葉に皆が飛び付いて同じ皿と酒のお代わりが並んだ。
「お店の中が真っ暗になってマスターが蝋燭に火を点けられた時、食器棚の横にその風呂敷包みが置かれているのに気付きました」
 しのぶは『あつっ』と言いながら新しい燗酒を口に含んだ。
「わたし、マスターが調理に必要なもの以外をカウンターの中に置いているのを見たことがありません。ということはその包みは預かり物。しかもわざわざ調理場に持ち出されているということは今晩取りに来られる方がいて、渡し忘れないようにするために目に立つところに置かれたのかなと思いました」
 言って初めて小鉢の中身に箸をつける。焼き味噌の濃厚な風味が口一杯に広がって、しのぶはほうっと溜息をついた。
「この中で山下さん以外は常連ですから渡し忘れたとしても、いつでも取りに来れます。だから、お昼間に一度来られた山下さんが、帰りに引き取るからと言って預けて行かれた可能性が高いと思いました」
 また言葉を切って、酒を一口呑む。
「風呂敷って袋やかばんと違って中身の形がはっきり出るものですよね。事務の仕事をしているからすぐにピンと来ました。その大きさってA4版の紙の大きさです」
「確かにそれくらいの大きさですね」
 センセが頷く。
「手荷物が多少嵩張るとしても、普通は見ず知らずの居酒屋に預けたりはしません。よほどこれから行く先にその荷物を持って行くのが憚られたのかなと思いました」
 更に杯を煽る。
「だったらむしろ駅のコインロッカーに預ける方が自然です。でも風呂敷包みはここに預けられました。これってどういうことだろうと不思議に思ったんです」
「なるほど、推理の取っかかりはそこだったわけですか」
 凍結酒をかき混ぜながら山下は頷いた。
「駅を出た時、たぶん山下さんはまだその荷物を持って行くつもりだったんじゃないでしょうか。けれど、マスターに道を訊き、お店の中で地図を描いてもらうのを待つ間に気持ちが変わったんだと思うんです」
「なんで変わったんやろ」
 ユウやんが合の手を打つように訊いた。
「お店の中でこれから向かう寺田先生と関わりのあるものと言ったらこれだけです」
 しのぶは立ち上がると少し危なっかしい足どりで壁際のパステル画に歩み寄った。メガネを外しているせいだろう、額を擦りつけるように目を近付けてその絵を見詰める。やがて振り返ってにっこり笑うとこう言った。
「この絵をご覧になったからだと思います」
 それを見遣りながら山下が頷いた。
「そう、そのパステル画です。寺田君はそのモチーフで何枚か描いていて、私は最初の一枚を見たことがあります。だから、すぐに彼の絵だと分かりました。その少女のモデルね、元気な頃の佳奈子なんです。六甲山の牧場でなだらかな芝生の傾斜を佳奈子が駆け上がっているところです。たまたま道を訊いた店でその絵を見付けてしまったことに私は因縁を感じました。その背中を向けた少女の見えない顔があの日の佳奈子そっくりに私を睨み付けている気がしてならなかった」
 それは考え過ぎだと言える者は誰もいなかった。

 

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