今宵、酔鏡(すいきょう)にて
第四夜 ユズラレハの伝言
《9》

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「それでもその時はもう道を尋ねた後。教えてもらった家は駅とは逆方向で今更駅に戻ろうとすれば間違いなくご主人に呼び止められてしまいます。それで無理を押してご主人に荷物を預かってもらったというわけです」
 しのぶは席に戻ると正面に向き直り風呂敷包みを見遣った。
「その包みは四角い箱のように大きさがきっかり揃っています。もし、山下さんが今なさっている郷土史の資料のようなものならもっとでこぼこがあるはずです。それと……」
 しのぶは少し思案するように目を細めながら言った。
「荷物を包むのに風呂敷を使われているというのが気になりました。単に古風なご趣味なのかもしれませんけど今日日なかなか見かけませんよね。普通は手提げ鞄などに入れます。でも、あるシチュエーションなら風呂敷の方が断然便利な場合があります。それは、中身を先方に置いて帰る場合です。これから遠方に帰らないといけないのなら尚のこと手提げ鞄はかさばって邪魔になります。でも、空になった風呂敷なら畳めばそのトランクにしまえます。だから、もしかしたら風呂敷の中身は寺田先生のお宅に置いて帰るつもりのものかもしれないと考えました。寺田先生は童話の挿絵画家。そこに持ち込んで置いて帰るきっかりA4版サイズの包みと言えば童話の原稿と考えるのが自然です。どうして山下さんはここまで来てそれを持ち込むことを躊躇ったんだろうと思っていたら佳奈子さんとの屈託を語って下さいました。その屈託が今でも山下さんを縛っている。しかもそれは佳奈子さんの想いではなくて山下さんの想いが自身を戒めてしまっている気がしたんです」
 しのぶは息継ぎをするように杯を煽った。
「正直、ダイイングメッセージの解釈が合っているかどうかはわかりません。でも、わたしもバリキさんの意見に賛成です」
 言われたバリキはきょとんとした顔になった。
「『祟るの』なんて、そのシチュエーションで言うことかい」
 バリキの口真似で言ってしのぶは破顔した。店はまた静かになった。主人が格子窓を開く。雨上がりのひんやりと心地好い風が入ってきた。
「なんと言ったら良いんでしょう。たったそれだけのことでそこまで見抜く方がいらっしゃるんですなあ」
 言って山下はグラスを旨そうに傾けた。
「あの、不躾にならないと良いのですけど、佳奈子さんのためにもあの原稿を寺田先生のところにお持ちになって下さい」
 しのぶは生真面目に頭を下げた。長い髪がふわりと揺れた。
「生きていればあなたのようなお嬢さんに育っていたでしょうか」
 目を細めて山下はしのぶのその姿を見ていたが、やおら立ち上がると深々と頭を下げた。
「こちらこそ恩に切ります。ようやく心が軽くなりました。今晩神戸に泊まって明日もう一度寺田君の家を訪ねます。実は彼には原稿のことを話していて、今日は一度読んでもらうために訪ねたのです。先程忘れてほしいと詫びたばかりですが構いますまい」
 笑って山下は席に戻るとグラスを乾して『勘定を』と言った。
「あの……、もうひとつだけ良いですか?」
 しのぶはおずおずと切り出して山下を引き止めた。
「その絵のことなんです」
 しのぶの目線を追って皆が壁のパステル画を見遣る。
「わたし絵のことは何もわからないのですけど、その絵の下半分、点描で描かれた草原の部分ってパステルじゃなくて、もっと伸び難くい画材が使われている気がするんです」
 しのぶの言葉に男達は思い思いに立ち上がってしげしげと絵を眺めた。
「言われたらそんな気もするけどようわからんなあ。で、それがどないしたん」
 ユウやんが首を捻りながら言う。
「その草原ってもしかしてクレヨンで描かれたものじゃないでしょうか。というより、クレヨンで描かれた草原に後からオイルパステルで少女が描かれたように思えるんです」
「絵のことは何もわからん言うわりには、えらい目が利くやん」
 バリキが呆れたように言う。
「いえ、本当に絵のことは何もわからないんです。ただ、その絵のサインを見てそう思っただけで……。二行のサインって普通ないですよね」
 言われて絵の右下を見た男達は『あっ』と声を上げた。
 K.Yamashita
 T.Terada
そこには、二行のサインが書かれてあった。
「その草原は六甲山の牧場で描かれた佳奈子ちゃんの遺作だと思います。それに寺田先生が加筆されたんじゃないでしょうか?」
「けど、なんでそんな大事な絵がここにあるんやろ。わしも絵のことはわからんけど、飲食店に飾ったら傷むんちゃう?」
「寺田先生は本職ですから、ちゃんとクレヨンコートで絵を保護してからお持ちになっていると思います。でも、確かに飲食店には飾らない方が良い気がわたしもします」
「その理由やったら俺がわかる気がする」
 客達が声に振り向くと主人が目を細めてじっとパステル画を見詰めていた。
「俺もようやく寺田センセがその絵をくれはった意味がわかったわ。山下さんがここに来られたのは今日が初めてやないんですよ」
 怪訝そうな山下に主人は言う。
「俺も最初はわからんかったけど真っ暗な中で佳奈子ちゃんのこと聞いてるうちに思い出したことがあります。十年以上前、寺田先生がお友達を連れて来られたことがありました。いっつも一人で来はるセンセが珍しいなと思うたんでよう覚えてます。そのお連れさんが小さい女の子連れてはったから尚更ですわ」
「寺田君の贔屓の店だと聞いた記憶がありますが……、あの時夕飯を頂いたのがここでしたか。思えば、あれが佳奈子との最後の夕食になったのです。よほど料理が口に合ったのか……いや、失礼。『おいしい、おいしい』を連発していました。この絵は寺田君なりの供養ということかな」
 つくづく因縁ですな―そう言って山下はまた丸椅子に座り込んだ。
「ま、来年で四十年の老舗ですから、いろんなことがありますわ」
 言って主人はにっと笑った。軒から下がった風鈴がしきりに涼やかな音を響かせる。先程まで荒れに荒れていた雷雨がうそのように穏やかな風が吹き、格子窓から見上げると月が掛かっていた。

 半年後、寺田の後押しもあって山下の童話が書店に並んだ。表紙はあの丘に立つ少女のパステル画である。ページをめくっていくと幼い佳奈子が大人になった自分を夢想する場面がある。そのページの挿絵にはポニーテールに小さな眼鏡をかけた生真面目そうなそれでいてどこか愛嬌のある娘が描かれていた。

 ─完─

 

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