【ひとこと】

 毎年3月の末頃になると、薄桃色の桜が花を開き始めます。あれを見ると春が来たんだなぁってしみじみ思うのです。というわけで、桜の出てくるお話を……。

           微笑みの季節

 俺が彼女を見かけたのは、厭な仕事に向かう列車の中だった。空席の目立つ車両の中で
まるでわざわざ選ぶように彼女は俺の真向いに座った。
 大した美人じゃなかったし、着ている物も地味なものだったが、それでも俺は彼女に釘
付けになった。
 彼女は――、微笑んでいた。
 それは、ついぞ俺が目にしたことがないような微笑みだった。何かいい事があって笑っ
ているという風じゃない。まるで、生まれた時から笑むことを知っている――そんな天使
みたいな微笑みだった。
「4月は、桜咲く季節ね」
 彼女の独り言だったのか、俺に向けて発せられたものだったのか今も分からない。窓の
外の薄桃色の桜並木を愛しむように眺めながら、たった一言彼女はそう呟いた。終点のひ
とつ手前で俺が降りた時も、相変わらず彼女は黙って外を眺めていた。

 次の晩、俺は久しぶりに美貴の店に顔を出した。
「せめて、あの人くらい女らしけりゃなぁ」
 長袖のブラウスにスラックスというお決まりルックの美貴を眺めながら俺はため息を
ついた。
「あの人ォ。こら、浮気してたな」
「お前が何にもやらせてくれないからさ」
 付き合いだして3月になるが、いいムードになると必ずぶち壊すようなことをする。か
らかわれてるだけな気もするんだが、今みたいにふざけた口振りと裏腹に、淋しい目をさ
れりゃまんざらじゃない気もする。
「洗いざらい白状しな」
 俺のグラスを取り上げて美貴は言いつのった。ひでぇバーテンがいたもんだ。
 俺は昨日の話をした。

「危ないなぁ。そんな人に惹かれちゃだめだよ」
「やきもちかい?」
 にやつく俺を無視して美貴は、がさがさ夕刊を広げた。
「この人じゃないの」
 自殺の記事が小さく載っていた。添えられた写真は紛れもなく――彼女だ。
「……。あんなに幸せそうだったのに」
「衝動的な自殺だったら、きっと表情も定まらない。でも、覚悟しちゃったら必ず楽にな
るんだと思う。縛られていたしがらみや苦しみから解放されて、何もかもがようやく終わ
るってね」
「天国を見ちまうってわけか」
「……、たぶんね。第一、この町じゃ桜の咲く季節は3月。4月は桜散る季節だよ。」
 何かまだ言いたそうな素振りだったが、結局美貴は黙っていた。その代わり、小さなた
め息をひとつ吐くと、ブラウスの袖のボタンを静かに外した。古ぼけてはいるが、それで
も生々しい傷痕が手首にあった。驚いて俺は美貴を見上げた。
 少し淋しそうに……、天使が微笑んでいた。

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