【ひとこと】

 高校生の頃、Gは英語が大の苦手だったので^^;、予備校の英語クラスに通っておりまし
 た。主に文法を教わっていたのですが、ある日のこと例題に出てきた短文に新約聖書の
 引用でこういうのがありました。

 百合の花のことを考えなさい

 本来は、豪華な衣服や宝石よりも野の花にこそ本当の美しさが備わっているのですよと
 いう教えのはずなのですが、Gはこの短文を見た途端にある種の芸術論を思いつきまし
 た。それが、こんなお話です。

           絵の先生の話

 私の子供時代ですか?親の目を盗んでは、絵ばかり描いている子供だった気がします。
 八人兄弟の四男坊。家はとことんに貧しく、口減らしのつもりで十三の春に私はすすん
で家を出ました。上京したものの終戦直後の東京にろくな働き口などありません。ほんと
うは、絵の勉強をしたかったのですが学校に行くお金などなく、その日、口に入るものが
あれば幸せという毎日でした。
 しかし、拾う神というものはあるもので、使い走りに置いてもらっていた酒屋のご主人
が絵心のある方で、それなら良い先生を紹介してあげるとおっしゃって下さったのです。
 藤田先生というその方は、奥多摩の一軒家で今は世捨て人のような暮らしをなさってい
るけれど、確かな方だからとのことでした。
 真っ平らな野原に一面白い百合の咲き競う中、先生の庵のような家は建っておりました。
 仙人のような風貌を勝手に想像していたのですが、出てこられたのはごく平凡な70が
らみのご老人でした。先生は紹介状を一瞥しただけで、すぐに私をほの暗い部屋に通して
下さいました。
 「この百合を描いてごらんなさい。」
 テーブルに百合を生けた花瓶を置き、ざら紙と鉛筆を私に渡すと一言そう命じて先生は
部屋を出て行かれました。
 二時間ばかりかけて、我ながら美しく描けたと意気揚々、先生に絵をお持ちしました。
 が、先生はろくに見もしないで首を横に振ると、無造作に絵を破いてしまわれたのです。
 それがはじまりでした。その夏中、私は仕事の暇を見つけては先生のところに通い、百
合の絵ばかり描いておりました。それでも先生は一向に、ここが良い、悪いとおっしゃっ
てくれるわけでもなく、ただちらりと見て、首を振って、破いてしまわれるだけなのです。
 流石の私も根を上げそうになった秋の頃、いつものように訪ねて行くと、先生は庵の外
に椅子を出して、すっかり百合も終わってしまった野原を眺めておられました。
 「あなたは、どうして絵が描きたくなるのですか?」
 唐突に先生は 尋ねられました。が、尋ねられた意図を掴みかねて私は黙っておりました。
 「こんな話があります。ある男が野原で一本の百合を見つけました。あまりに美しかっ
たので男は街に住む恋人にも見せてやりたいと考えました。だが街は遠くて、持ち帰れば
百合は枯れてしまいます。そこで、男は百合の絵を描き始めました。何枚も何枚も、どう
すれば自分の感動が彼女に伝わるかとそれだけを考えながらね。
 やっと、気に入った絵が描けたので、男は街に戻って恋人に見せました。『なんて綺麗
な百合なんでしょう』彼女はそう言ってその絵を大切に飾りました。でも、その絵のどこ
が美しいのか分からず彼女に尋ねる人もいたといいます。それでも、男は満足でした。絵
とはそういうものなのです。」

 あれから二十年が経ちました。二児の父親になった私は未だに百合の絵が描けずにおり
ます。それでも、先生のあの時の言葉は今でもずっと心の中に残っているのです。

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