会社に戻ったときは、夕方近くになっていた。営業部屋に入った僕は真っすぐ課長席に

向かった。

 気配に気付いて顔を上げた課長は、僕を見るなりかみついた。

 「佐々木、どこで油売っとったんや。」

 「すみません。先方との打ち合せが長引きました。」

 僕の様子がいつもと違うのに気付いたのだろう。課長は次の言葉を出しかけて呑み込んだ。

 「で、どうやったんや。」

 改めて尋ねてくる。

 「契約は継続です。開発中だった新薬に大口の買い付けが入ったので、うちへの発注も今

までの6割増しにしたいとのことです。」

 僕の言葉を理解するにつれて、課長の表情がみるみる柔らかくなった。

 「ようやった。まぐれでも構へん、これはお前の手柄や。」

 課長は立ち上がって僕の肩をたたいた。課長の笑顔を僕は始めて見たような気がした。


 その日は夜遅くまでかかって松山製薬の見積書を作った。体はくたくたになったけれど、

気持ちのいい疲れ方だった。それに、側を通る人が笑いながら、みな口々に僕を誉めてくれる

ので何だかくすぐったかった。

 次の日、見積書を課長の査閲に回した僕は定刻で退社した。久しぶりに一杯やりたい気分だ。

 僕は駅とは反対方向に向かって歩き始めた。10分ほど歩くと結構賑やかなアーケード街に

出る。もう少しすると会社帰りのサラリーマンやOLで一杯になるのだが、時間が早いせいか

比較的静かだ。

 アーケードの天井から吊されている大時計を見上げながら歩く。――6時5分前、ちょうど

良い頃合だ。カメラ屋、喫茶店、靴屋、文房具屋、喫茶店、そば屋と過ぎると右側に幅2メートル

そこそこの小さな路地がある。そば屋の側面の壁が切れた辺りで、今度は左に曲がるともっと

狭い路地があって3メートルと行かないうちに右手に地下に潜る階段が口を開けている。階段を

下りると分厚い一枚板にくすんだ色のニスが塗ってある古びた扉が無愛想に立っている。目の

高さよりやや上に釘が一本打ってあり、その釘から紐で小さな看板がぶら下がっている。

 「かがみ」――これが毎晩6時開店のこのショットバーの名前だ。扉を押すと蝶番が錆付いて

ぎしぎし云う音がカウベルと不協和音を奏でる。

 「いらっしゃいま……。何だ、徹ちゃんか。」

 カウンターの向こうで新聞を読んでいた美貴が顔を上げる。

 「ひどいなあ。一応客なんだぜ。」

 カウンターの左から三番目のスツール。一番乗りした日の僕の指定席だ。

 「だって、ただでさえ顔を出さなかったのに、こんな時間に現われるなんて珍しいじゃない。

きっと、明日はまた雨よ。」

 言いながらグラスとボトルを並べ始める。美貴は二つ年下で二十二歳のはずだ。去年の秋僕が

初めてこの店にきたときには、もうここでシェーカーを振っていた。短く切った髪、引き締まった

顔立ち、上背も170近くある。今日みたいに蒸し暑い日でもトレードマークだと言って長袖の

ブラウスにスラックスを着ている。

 ボーイッシュなのは外見ばかりじゃない。相手が年上だろうとお構いなしに思ったことをはっ

きり言う気性だ。

 「でも、本当に久しぶりだね。」

 クレメンタインをショットグラスに注ぎながら言った。

 「ああ。」

 僕はまじまじと美貴の顔を見た。あの人とは正反対だなとつくづく思う。付き合い初めて三ヵ月

になるけど、もう少し女らしくてもいいのにと不満に思うときがある。折角、いいムードになり

かかっても、必ずぶち壊すようなことをする。時々、これはナチュラルに拒絶されてるんじゃ

ないかと思うことさえある。

 「なに。あたしの顔どうかした。」

 「いや、あの人の何分の一かでも女らしかったらいいのになあと思ってさ。」

 「あの人ォ。こら、浮気してたんでしょ。」

 「お前が何にもさせてくれないからさ。」

 「言い訳なんて、男らしくないぞ。」

 口調はふざけているのに目が妙に淋しそうになる。まるっきり拒否されている訳でもない

らしい。

 「マスターは?」

 「上の酒倉。もうすぐ下りてくるよ。あっ、そうやってすぐ話題をすり替える。」

 まだ何か言いたそうだったけれど、その時木戸が開いて客が入って来たのでお預けになった。


 それからは、店も賑やかでマスターと美貴は大忙しだった。僕は、低く流れるコルトレーンを

聴きながら、ゆっくりグラスを重ねた。時折、バットを一振りしては一本点ける。煙の向こうの

美貴の横顔を眺めながら、僕は昨日の快挙を静かに祝った。

 看板近くなって、僕が一人残るとマスターはまた酒倉に上がって行った。

 「さあ、洗いざらい白状なさい。」

 美貴が待ち兼ねた様に言った。

 「何だ、まだ覚えていたの。」

 「当然。」

 「昨日、電車の中でね――。」

 僕はその女の人のことを話した。

 「何だか、その商談がまとまったのは、その人のお陰のような気がしてね。その人の笑顔の

幸せさが僕に乗り移ったって云うのかなあ。

 それに、仕事が上手くいって初めて僕は課長を逆恨みしていることに気付いたんだ。ああ、

一人でいじけてたんだなあって思うと、今までのもやもやも急にふっきれた。それもこれもあの人の

笑顔がきっかけを作ってくれたように思えるんだ。」

 言って僕はショットグラスの残りを乾した。

 「危ないなあ。」

 美貴が意外な返事をした。

 「何が。」

 「危ないよ。天使みたいな笑顔を浮かべ続けられる人なんてこの世にいないと思うよ。そんな人に

惹かれちゃだめだよ。」

 「なんだい、やきもちかい。」

 美貴はさっき読んでいた夕刊をカウンターの上に広げた。

 「この人じゃないの。」

 三面記事を開く。自殺の記事が載っていた。郊外の終着駅から歩いて30分ほどの山中で女性が

首吊り自殺。

 「馬鹿な。あんなに幸せそうだったのに。」

 写真は、しかし紛れもなく彼女だった。

 「自殺を覚悟した人間の顔を想像したことある?」

 「いや。でも、もっと悲愴な顔になると思っていた。」

 新聞を持つ手が少し震えた。

 「衝動的な自殺なら、表情も定まらない。やった本人も何が起こったか判っていないと思うよ。

でも、覚悟してしまったら決まって気が楽になると思うの。今まで縛られていたしがらみも、苦し

かったり辛かったりした事からも開放されるってね。」

 言って美貴は、静かにショットグラスにクレメンタインを注いでくれた。

 この町では――桜咲く季節は三月。四月は桜散る季節……。誰の言った言葉だったんだろう。

脈絡もなくそんな言葉が、ふと心をよぎった。

 「天国を見ちまうって訳か……。」

 「多分ね。だから天使みたいな笑顔ができるんだ。」

 「そんなものかな。」

 「そんなもんだよ。」

 美貴は一つ小さなため息を吐くと、ブラウスの左袖のボタンを外して袖を上げた。

 美貴の手首には古くなっているけれど、それでも生々しい剃刀の痕があった。僕は息をのんで

美貴を見上げた。少し淋しそうに……、天使が微笑んでいた。


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