その日は1日中、拓也はうつらうつらとしながら過ごしていた。斜め後ろに座っている

若葉は気を揉み通しで、先生の注意が飛ぶたびに自分が叱られているみたいに首をすくめ

た。

 ようやく、6時間目が終わって若葉はほっとしながら帰り支度をはじめた。拓也は授業

の終わりの礼もそこそこに教室を飛び出していったので若葉の斜め前はとうに空席になっ

ている。訳もなしに若葉はため息をひとつついた。

 「ねえ若葉ちゃん、屋台に寄っていこうよ。」

 雪江ちゃんが背中を突っついた。

 「うーん、どうしようかなあ。」

 壁の時計を見ながら若葉は迷った。女子の間では駅前にやって来るクレープの屋台がも

っぱらの噂になっている。――三時二十分か。夕飯には充分間があるわ。

 「よし、行こうか。」

 若葉はふりかえると笑って言った。

 「お母さんの具合どう。」

 校門を出てぶらぶら歩きながら雪江ちゃんが尋ねた。

 「まだ病院に電話してないから詳しいことはわからないの。でも、しばらくは、また入

院になると思うな。」

 「大変だねえ。」

 「うん。でももう慣れちゃったからそうでもないよ。」

 若葉はいつものようにのんびりと答えた。学校から駅までは5分足らずの道のりだから

ほんの少しおしゃべりをすればもう駅舎の大時計が見えてくる。空色と白の縞模様に染め

たカンバス地の屋根が目印の屋台が駅前のロータリーの隅に停まっていた。 

 「二、三人しか並んでない。急ごう」

 雪江ちゃんが若葉を急かす。

 「若葉ちゃん、つきが戻ってきたんじゃない?あんなに列が短かったのあたし初めてだ

よ。」

 ベンチに並んで腰かけながら雪江ちゃんが言った。

 「うん。いつも十人くらい並んでるもんね。」

 「今日ね……。」

 雪江ちゃんは、クレープのなかのアイスクリームとオレンジソースをこぼさないように

注意深く口を開いた。

 「拓也くん、居眠りばかりしてたでしょう。小林先生がチョークを飛ばしたときは、昨

日のバチが当たったんだわって思っちゃった。」

 言ってからふふっと雪江ちゃんは独特の笑い方をした。

 「でも……、昨日私が泣いちゃったのは拓ちゃんのせいじゃないんだよ。」

 クリームチーズとあんずのソースを上手に頬張りながら若葉は言った。

 「それにね、拓ちゃん責任感じちゃったみたいで今朝これをくれたの。」

 若葉はかばんをごそごそ探ってチョコレートの箱を引っ張りだした。

 「それ、昨日の電気びっくり箱じゃない。」

 「ううん。」

 若葉はひざの上に広げたハンカチの上にクレープを置くと箱のふたを開いた。ロンドン

デリーが流れだして、雪江ちゃんは目を丸くした。

 「たぶん徹夜で作ったんだよ。だから先生が注意するたびにハラハラしちゃった。」

 「ふうん。」

 雪江ちゃんは、にやにや笑いながら若葉の顔をのぞき込んだ。

 「何よう。」

 「ううん。いいなあと思っちゃっただけよ。」

 目を見交わすとなぜかおかしさが込み上げてきて、二人はひとしきりくすくす笑いをし

た。笑い疲れると雪江ちゃんはチョークを飛ばした小林先生の噂話を始めた。

 若葉が家に戻ると丁度お父さんが起きてきたところだった。徹夜の次の日は休みが取れ

るのだ。若葉は手早く支度をして、お父さんと一緒に夕飯を食べた。

 箸を動かしながら、お父さんはお母さんの具合のことを話してくれた。お昼前に病院に

電話して尋ねたのだそうだ。先生の話では一週間程で退院できるだろうと云うことだっ

た。――本当につきが戻ってきたのかしら?若葉は小首をかしげて考えた。 

 部屋に戻ると若葉は机の引き出しを開けてレモンイエローのハンカチを取り出した。広

げるとあの鍵が出てくる。じっと見ているうちに、あの宝箱のふたを開けてみたい誘惑で

若葉の心はむずむずしてきた。慌ててハンカチをたたむと又、引き出しにしまう。

 でも、この鍵は私に『いいこと』を呼び寄せてくれたみたい。チョコレートのふたを開

けてロンドンデリーを聴きながら若葉の口元は自然とほころんできた。



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