校門のところで若葉は石をけりながら考え込んでいた。――カバンどうしようかな。

 教室には戻りづらいし、カバンを放ったらかしにして帰るのも気がひけた。

 ――いいや。今日は、宿題出なかったし、カバンがなくても困らない――ビー玉く

らいの砂利石を一つけ飛ばして若葉は歩き始めた。

 校門前の交差点を渡って真っすぐ行くと電車の駅に出る。そこを左に折れて駐輪場を過

ぎると、駅前商店街だ。商店街の真ん中に立っている大時計を見上げて若葉はまたため息

をついた。5時15分――。早く帰って夕飯の支度をしなければいけない。お父さんが

工場から6時には帰ってくる。

 肉屋と、八百屋で手早く材料を買ってアーケードを抜けた途端、今日いくつ目になるか

わからない『ついてないこと』が空から降ってきた。先週の天気予報で梅雨入りが宣言さ

れていたけど、昨日までは一滴も降らなかったくせに……。若葉は唇をかんで、恨めしげ

に空を見上げた。

 春先によく降るような小糠雨で、どちらかと言うと霧に近いようなつぶの細かい雨だ。

ひと筋向こうの通りを、どこかの高校生が頭にカバンをかかげて、駆けていくのが見えた。

 ――すぐ止むんじゃないかな。そう考えて若葉は雨の中を飛び出して行った。

 五分後――。若葉はシャッターの閉まっているタバコ屋の軒先に立っていた。目の前

で夏の夕立のような雨が降っている。心底また泣きたいような気持ちになった。ちょっと

油断すると、すぐにのどが鳴りだしそうだ。

 遠くで終鈴が聞こえる。若葉の中学校の部活員に下校を促す合図だ。五時四十五分――

もうすぐ夏至なので本当ならまだまだ明るい時分のはずだのに、すっかり薄暗くなった空

に応えるように街灯が雨足の向こうで一つまたたいて灯った。

 「どうしよう。」

 口をヘの字に曲げて、若葉はつぶやいた。家までは駆け足でも15分はかかる。容赦な

い雨足をそろっとのぞき込むように若葉は首を突きだした。その途端首筋に冷たいものが

落ちてきたので慌てて首をすくめた。

 雨垂れかしら、反射的に衿のあたりに手を伸ばした若葉の指先に冷たいものが触った。

何か薄っぺらい金属でできたものだ。服に入り込まないようにそろっと指でつまんだ。

 首筋に降ってきたのは鍵だった。

 でも変な鍵ねえ――。若葉が思ったのも無理はない。全部で4センチ足らずのちっぽ

けな鍵なのだが、そのうちの2センチくらいが丸い形をした持ち手になっているのだ。肝

心の鍵の部分と不釣り合いなので誰でも首を傾げてしまう。

 薄い円盤になっているその持ち手には若葉が見たことのない文字――アルファベット

じゃないわねと思った――が刻まれていた。持ち手に比べて小さく見劣りする鍵の方は、

それでも先の方に小さな枝が沢山でていて、複雑な形をしていた。

 どこから落ちてきたんだろう――、もう一度若葉は首を伸ばしたが雨が激しく降って

くるばかりだ。もう一度鍵に目を戻してからポケットに入れた。捨てるのは気が引けた

し、――もともと物を捨てるのが苦手な質なのだ――誰かに返すにも周りには誰もい

なかったからだ。

 雨は一向に止まない。大きく息を吸い込むと思い切って若葉は走りだした。

 家に着いた時には袖からもスカートからもぼたぼた水が落ちていたし、髪の毛はべった

り顔にくっついていた。三和土にはたちまち小さな水溜まりができたが、構わず下駄箱を

あけて雑巾を出した。靴と靴下を脱ぐと手早く足を拭いて玄関に上がった。

 五分もすると濡れた衣類は風呂場で干され普段着に着替えた若葉はタオルで髪を拭いて

いた。いつのまにかそんな段取りの良さが当たり前に身についているのだ。だから6時半

を過ぎて拓也が顔を出した時には夕飯の支度はひと区切りついて、出来上がりを待つばか

りになっていた。

 「――ごめんな。」

 若葉のカバンを手渡しながらしきりに拓也は繰り返した。

 「ううん――。ちょっと疲れてただけだから……。」

 あんな風に若葉が飛び出してしまったから女子の槍玉に上がったんじゃないだろうか、

カバンだって半分は無理矢理持たされたのに違いない。そんな風に考えると若葉は却って

申し訳ない気がした。

 「おばさんは?」

玄関からのぞき込んで拓也は聞いた。

 「ゆうべ入院したの。」

 まじまじとエプロンを掛けた若葉を見下ろしながら、

 「お前ん家も大変だなあ――、何か手伝うことないか……。」

 「いいよ。もう夕飯の支度も済んじゃったし。」

 「ふうん――。」

 拓也はまだ何か言いた気に若葉の足元をもじもじと見詰めていた。

 「本当に――。」

 若葉はくすくす笑い出してしまった。

 「大丈夫だってば。電気びっくり箱のことは気にしないで。でも――、誰かれなしに

試しちゃだめよ。人によったら危ないかもしれないじゃない。」

 若葉は見上げるようにして拓也をちょっとにらんだ。

 「わかったよ。本当にお前はうちの母さんみたいだな。」

 言いながらそれでも、ほっとした顔になって拓也は帰って行った。

 台所に戻って煮物の具合を見ていると電話が鳴った。若葉の肩がびくっと震える。病院

だろうか?急いで濡れた手をタオルでふき、玄関の横の電話にかけよった。

 「もしもし――。」

 「若葉か。」

 「何だお父さんか。病院から電話かと思っちゃった。」

 「何だはないだろう。今日残業になりそうなんだ。悪いが夕飯を先に食べておいてくれ

ないか。」

 「……わかった。」

 「何時になるかわからんから、戸締まりをしっかりな。」

 「うん。」

 すぐに現場に戻らなければならないのだろう。用件だけ告げるとお父さんは電話を切っ

た。若葉は受話器を置きながらため息をついた。しばらく、うつむいたまま身じろぎもし

ない。いったいついてない事は、いくつ目になったんだろう。

 若葉のお父さんは工場勤めだから毎日6時に帰ってくる。ところがたまに機械の故障や

何かが起きると修理のために残業をすることになる。そうなると、もう何時に帰ってくる

のか分からない。ときには徹夜することだってあるのだ。

 若葉はお父さんの食器をしまいながら下唇をかんだ。今日は本当に疲れているらしい。

ご飯を食べてもちっともおいしくないし、楽しいことを何か思い浮べようとしても一向に

『楽しいこと』は浮かんでこなかった。

 それでも洗い物を済ませてお風呂に水を入れる頃には少しは気分が晴れて、読みかけの

小説でも読もうかなという気分になってきた。

 一人っ子で、しょっ中鍵っ子のような夜があるというのに不思議なほど若葉はテレビを

見ない子だ。生れつき――と自分でも思っているのだが――空想癖があってあれこれ

想像することが大好きなのでテレビよりも自分で好きなように情景を描ける読書の方が性

に合うのだろう。

 台所の隣の4畳半が、若葉の勉強部屋だ。蛍光灯を点けて机の横の本棚に手を伸ばそう

とした若葉の目の端に小さな黒いものが映った。

 そうそう、すっかり忘れていたなあ。若葉は心の中でつぶやいた。タバコ屋の軒先で拾

ったあの小さな鍵を机の上に置いていたのだ。とりあえず、小説は後回しにして椅子に座

った。電気スタンドを点けると、改めて持ち手に刻まれている不思議な文字に目を凝らし

た。。

 英語でも中国語でもない。アラビア文字?違うような気がする。

 何の鍵だろう。セカンドバックか小物入れにしては大きすぎる。でも扉の鍵にしては小

さすぎる。それに細い心棒にいっぱいついた小さな枝。よっぽど複雑な仕掛けの鍵よね。

若葉は忙しく空想をめぐらせた。大きさといい形といい何の鍵といっても似合わない。け

れど、何の鍵といってもうなづけてしまうような気もする。何の鍵でもなくて何の鍵でも

ある不思議な鍵。

 ふっと若葉の口元がほころんだ。どんな厳重な錠前でも、たちどころに開いてしまう魔

法の鍵・・

・。いたづらっぽい目で若葉は部屋の中を見回した。そう考えると何かで試してみたくな

ったのだ。何か鍵のついたものなかったかなあ。

 ――あった。若葉の目は本棚の上の飾り棚で止まった。ガラスの引き戸を開けて両手

を入れると、そろっと小物入れを出した。飾り棚には、他にもガラス細工の動物や人形が

沢山並べてあるのでうっかりすると手が当たって落ちてしまうのだ。

 若葉は、いそいそと小物入れを机の上に置いた。四角い箱にかまぼこ型のふたのついた

大昔の旅行トランクのような形をしたこの小箱は若葉の宝箱だった。箱の四方は、ヨーロ

ッパの森の風景が浮き彫りになっていて、鹿や兎が走っていたり、牧童が娘と踊っていた

りする。でも中はもっと見事だったのだ。目の醒めるようなぶどう色のビロードが敷き詰

められていて、ふたを開けると若葉の大好きな「ロンドンデリー」のオルゴールが鳴った。

お母さんが初めて入院したとき――若葉がまだ三歳の頃だ――、夜になると若葉はよく布

団の中で寂しがって泣いていたらしい。お父さんが、その話をお母さんに伝えたのだろう。

体調が持ち直して久しぶりに家に戻ってきたとき、お母さんの小物入れだったこの箱は若

葉に譲られた。いつのまにか若葉は子守歌がわりに「ロンドンデリー」を聞くようになっ

ていた。若葉はこの箱のなかにビーズや綺麗な色のガラスのかけらを入れては、鍵を掛け

て大事にしまったものだ。

 あれは若葉が小学校の2年生の頃だっただろうか。やっぱり梅雨時の集中豪雨で学校が

休校になった日、家の前で遊んでいて――雨は昼前に上がってしまっていた――、若

葉はうっかりポケットに入れたままにしていた宝箱の鍵を溝に落としてしまった。折から

の増水で鍵はあっという間に流れていってしまった。若葉はわあわあ泣きながら捜したけ

れど結局見つからなかったのだ。

 だから、この箱はその日から一度も開いていない。

 若葉は、鍵をつまむと恐る恐る小箱の鍵穴にあてがった。けれどすぐにため息をついて

また鍵を置いてしまった。こんな四方八方に枝の伸びた鍵がこんな小っちゃな穴に合うわ

けないじゃない。

 でも、もし本当に魔法の鍵だったら――。若葉はもう一度鍵をつまみ直すと鍵穴にあ

てがってぐっと押してみた。

 「えっ……。」

 若葉は思わず声を立てた。四方八方に伸びた枝はまるで蝶番がついているようにパタパ

タと倒れて何の抵抗もなく持ち手のところまで鍵穴のなかに納まってしまったのだ。持ち

手をゆっくりと回してみる。

――カチッ…、…。(鍵が開いた。)バネ仕掛けのふたが勢いよく開く。

 一瞬「ロンドンデリー」が流れだしたような気がして若葉は、耳をそばだてた。けれど

も空耳だったみたいだ。ふたの開いた宝箱からはいつまでたってもオルゴールは流れてこ

なかった。

 どうしたのかしら――若葉は中をのぞき込んだ。ビーズもガラス玉も見えない。黒く

て四角い穴がぽっかりと開いているだけだった。

 宝箱を持ち上げて静かに振ってみる。さらさら、カチカチ――ガラスのぶつかり合う

音が確かに聞こえる。改めて机の上に置き直してのぞき込むとやっぱり黒い穴が開いてい

る。

 変なの――。若葉は、首を傾げてちらちらと盗み見るようにその穴に目をやった。じ

っとのぞき込んでいるとその穴に引き込まれてしまいそうな気がしたのだ。

 できるだけ箱の中を見ないようにしながら、そろそろと手を伸ばして鉛筆立てから一番

長い鉛筆を抜き取った。何となくこの黒い穴が底なしのような気がして、試してみたくな

ったのだ。手を伸ばして鉛筆を箱の真上に持って行くと、真っすぐに立てて黒い穴へとゆ

っくり下ろしてゆく。 

 手元まで突っ込んでもまだ底に当たらなかったらどうしようかな――少し胸を弾ませ

て半ばそんな想像をしていた若葉は顔をしかめた。カツンと音を立てて鉛筆は箱の縁で何

か硬いものにぶつかってそれ以上突っ込めなかったのだ。恐る恐る指で触ると、まるで箱

の縁にそってガラスが張ってあるような冷たい感触が伝わった。どうやらその向こうの黒

い穴は、こちらからは触れられない世界みたいだった。

 いったいこれは何なんだろう。いつの間にか若葉は、この不思議な黒い穴に夢中になっ

ていて、疲れていたことも、淋しかったことも忘れていた。指で二度、三度その見えない

ガラスを弾いてみる。それから今度は、指の腹でなでてみて冷たい感触を楽しんだ。と、

急にガラスの向こうが明るくなった。若葉は慌てて指を引っ込める。見てはいけないもの

が現われるような気がして目をそらせようとするのだがうまくいかない。白く光っている

宝箱に釘づけになったままだ。

 拓ちゃん――?ガラスの向こうに拓也がいた。畳み敷きの部屋の蛍光灯をつけたとこ

ろらしい。ガラスの向こうの拓也はそのまま部屋の隅の机の方に歩いていった。机の横に

立てかけてある学生カバンを開けると例の電気びっくり箱を取り出した。机の隅にのって

いる布きれでチョコレートのふたを開けると中から薄い板を引っ張り出した。板には四角

くて黒い部品や細長くて茶色の地に赤や黄の縞模様の入った部品がくっついていた。拓也

は左手でその板を支えておいて右手で黒いスイッチを切った。パチンと音がして、若葉は

向こうの景色から音が伝わってきていることを初めて知った。

 テレビみたい――。若葉は思った。でもこの光景はいったい何なんだろう。宝箱の向

こうでは、はんだごてを温めていた拓也がさっきの板にくっつけていた部品をバラしはじ

めていた。

 本当に好きねえ――若葉は、思わず笑ってしまう。拓也がラジオのスイッチを入れた

ので見えないガラス越しに音楽が聞こえてきた。でも当の拓也自身はその音楽が耳に入っ

ているのかどうか忙しく手を動かすことに熱中している。

 もっと見ていたいけど――。我にかえった若葉は、そう思いながらも急いで宝箱のふ

たを閉めた。何だかのぞき見をしているような気がしてばつが悪かったのだ。

 今見た光景が何だったのかは分からないけれど、これは正真正銘の魔法の鍵なんだわ。

若葉は改めて鍵をつまむと、持ち手の不思議な文字に目を凝らした。その文字を指でひと

撫でしてみる。

 やおら立ち上がって洋服ダンスの引き出しを開けると、一番お気に入りのレモンイエロ

ーのハンカチを取り出した。鍵の先をつまんで静かに息をはきかけて、ハンカチの隅でこ

する。それから、ハンカチで丁寧に包むと勉強机の引き出しにしまった。何となく大切に

扱わないといけない気がしたのだ。

 落ち込んでいたのがうそのように気持ちが軽くなって、てきぱきと体が動いた。お風呂

を沸かして、乾いた食器に布巾をかけて、片付けて、お風呂に入って――、急に疲れが

戻ってきたようで若葉はぐっすり眠った。



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