次の土曜日は薄曇りのお天気だった。家の裏手に回ってお風呂の種火を点けに行った若

葉は軒下の電気の箱――電気メータか分電盤か何かだと若葉は思っているのだがよくは

知らない箱だ――にも鍵がついているのを見付けた。スカートのポケットを探って鍵を

出すと、その小さな鍵穴に差し込んでみた。持ち手をひねると右開きにふたが開いた。

 いきなり小学生の頃の若葉がこちらに向かって走って来た。すぐ目の前で跳び上がる。

そう云えばゴム跳びが流行っていたっけ。細いゴム紐を横にわたしてそれを跳び越える遊

びにすぐ思い当った。背が低かったけれど、ずいぶん高くまで跳べて若葉はこの遊びがお

気に入りだった。跳び越える瞬間の体が軽くなるような感覚が何とも云えなかったのだ。

 何人かで交替に跳んでいるらしい。懐かしい顔が次々に現われてはこちらに向かって走

って来る。道路のあちこちに水溜まりができているところを見ると雨があがったばかりの

ようだ。

 また若葉の順番が回ってきた。だいぶゴムは高くなったらしく走りだす前に息を整えて

いる。少し目を大きく開くと、走り始めた。地面を蹴ってふわっと跳び上がった瞬間に、

何か小さな金属が落ちてアスファルトにぶつかる音がした。

 「若葉ちゃん何か落としたよ。」

 きれいに着地した若葉に誰かが――たぶん雪江ちゃんだろう――声をかけた。

 「あっ、鍵」

 慌ててポケットに手を突っ込んだ若葉は声を上げた。

 「溝に落ちたよ。」

 別の誰かが行った。弾かれるように小さな若葉は溝に駆け寄ったけれど、茶色い水が大

きな音をたてて流れていてとても見つかりそうになかった。地べたに四つんばいになりな

がら一心に目を凝らしていた若葉の顔がくしゃくしゃとなった――。

 あっ、泣き出しちゃう。宝箱の鍵を無くした日のことを思い出しながら背伸びをして電

気の箱をのぞき込んでいた若葉は思った。

 その時、今までにはなかった変化が起きた。いきなり、向こうの場面が切り替わったの

だ。茶色い濁流に揉まれながら小さな鍵が流れていく。真っ暗なはずの溝の中はどう云う

訳か薄ぼんやりと明るかった。 「若葉、お風呂はどうしたの。」

 家の中からお母さんの声がして、若葉は自分がしに来た用事を思い出した。種火のコッ

クをひねって急いで家のなかに入る。すぐに戻ってくるつもりで電気の箱は開けたままに

しておいた。

 「悪いけど、てんぷら見ていてくれない。お父さん泊りになりそうだから着替えを届け

に来てくれって言ってるのよ。」

 「はあい。」

 若葉は笑いながら返事をした。

 お母さんが入院している時は一度もそんなこと頼まなかったくせに。よっぽどお母さん

の顔が見たいのかしら。

 てんぷらを揚げているとみそ汁の火加減が気になりだして結局夕飯の支度を全部済ませ

てしまった。洗い物もきれいに片付けて電気の箱に戻ってきた頃にはかれこれ一時間が過

ぎていた。そろそろお母さんも帰ってくるだろう。

 洗濯機のところから青いバケツを持ってきた若葉は、それをひっくり返してそっと上に

乗った。――背伸びは結構くたびれるのだ――。鍵は排水口か何かの鉄の格子に引っ

掛かっていた。海が近いらしく微かに波の音が聞こえる。鍵はしばらくその縦縞の格子と

ぶつかり合っていたが、不意に強い流れが押し寄せて来て、とうとうその格子をくぐって

外へ流れだした。大きな円筒形のコンクリートの塊にぶつかりながらやがて押しながす流

れが弱まると、鍵は自分の重みで沈んでいって止まった。

 円筒形のコンクリートと思ったのは、海岸によく置いてあるテトラポットの足のようだ

った。鍵の沈んだそばのテトラポットはどう云う訳か足が平らに欠けていた。波がくる度

にその平らな面と鍵がぶつかり合った。が、やがてそれもコンクリートの足の縁に鍵が引

っ掛かると止まって、後は静かに波の音が聞こえてくるだけだった。

 「ねえ雪江ちゃん、明日海に行かない。」

 その夜、若葉は雪江ちゃんに電話をした。

 「いきなり、どうしたの?」

 「お願い。捜し物があるの。付き合って。」

 「……うん。まあいいけど。」

 雪江ちゃんは何か言いたそうだったけれど、若葉の語調に気圧されてしまったようだ。

 

 次の日、朝の八時にバス停で待ち合わせた若葉と雪江ちゃんは病院とは逆方面に行くバ

スに乗り込んだ。海辺りまではバスで三十分ぐらいだ。若葉のカバンの中には昨日机の引

き出しの奥から引っ張りだした小学校の頃の夏休みの自由研究が入っていた。『わたしの

町の水の流れ』。表紙にはそう書いてある。鍵を失くしたことが余程悲しかったのだろう。

その年の夏休みに若葉は町の排水や下水の流れを調べて自由研究にした。市役所に排水の

流れの載った細かな地図をもらいに行ったり、自分で歩いて回ってその地図にメモを入れ

たりして研究としてはなかなかの力作になった。けれど結局鍵を探す役には立たなかっ

た。海の方まで流れたのだろうと云うことはわかったけれど、海岸は小さな鍵を探すには

広すぎたのだ。

 「ごめんね急に付き合ってもらっちゃって。」

 「いいよ。久しぶりに天気もいいし、ピクニックみたいじゃない。でも何を探しに行く

の。」

 「着いてから話すよ。」

 バスを降りてコンクリートの堤防を越えると砂浜を右手の方に向かって歩き出す。若葉

はカバンから地図を出して地形と見比べながらゆっくり進んだ。

 「こっちよ。」

 昨夜、遅くまで地図をにらんで、あの溝から流れ着く排水口は調べてあった。

 「ねえ、何を探すのよう。」

 「鍵よ。オルゴールの鍵。小学校の時ゴム跳びしてて落としたでしょ。」

 「ええ?!」

 あきれ顔で雪江ちゃんは立ち止まったが、若葉がどんどん歩いて行くので仕方なくまた

ついて行った。若葉は目指すテトラポットの山によじ登ると振り返って言った。

 「ねえ、足が半分削れているやつを探して。」

 「あった。」

 三十分ほども経って大概に二人とも探し疲れ始めた頃、若葉の歓声があがった。急いで

靴と靴下を脱いで「ちょっと持ってて」と雪江ちゃんに渡すとコンクリートの隙間に潜り

込んだ。

 「危ないよ。」

 「大丈夫。」

 両腕で体を支えながらゆっくり足を下ろす。

 「うわあ。冷たい。」

 六月の水の冷たさが若葉の足先を通して全身に伝わってきて、ぶるっと体を震わせた。

でも、何だかくすぐったい。すぐに心地良くなってきたその感触を楽しみながら若葉は身

をかがめた。確か平らな面のふちに鍵は沈んだはずだった。けれど、幾ら目を凝らしても

コンクリートのふちには何も見当らなかった。違うテトラポットなのかしら?コンクリー

トの足に手をついて若葉は考えた。

 ふと思いついて、ふちに沿って積もっている砂を掘ってみた。指に硬いものが当たる。

若葉がつまみ上げた物は、五年の歳月ですっかり錆びてしまっていたけれど紛れもないあ

のオルゴールの鍵だった。

 「どう?」

 頭の上から雪江ちゃんの声がした。

 「ありがとう。あったよ。」

 返事をして若葉はズボンのポケットに大事に鍵をしまった。

 「上がってこれる?」

 心配そうな雪江ちゃんの声をよそに、テトラポットの上のふちに両手をかけると若葉は

地面を蹴った。コンクリートの隙間から体が半分程出ると、後は懸垂の要領で体を起こし

て足を外に出した。長いこと家事をやりつけているから同年代の女の子と比べると、腕の

力はとびきり強い方なのだ。

 「若葉ちゃんのズボン、裾もお尻もびしょびしょじゃない。」

 雪江ちゃんが素っ頓狂な声をあげた。

 「えっ?ほんとだ、どうりで冷たいと思ったわ。」

 夢中でかがんで鍵を探していたので、すっかり忘れていた感覚がようやく戻り始めた。

 それからしばらく若葉はお尻を乾かしながらコンクリートの上に寝そべっていた。雪江

ちゃんも隣に座って海を見ながらおしゃべりをした。

 「鍵、見つかって良かったね。」

 一言そう言っただけで、それ以上雪江ちゃんは何も聞かなかった。若葉が言いづらそう

にしているのが分かって気を遣ってくれたのかも知れない。若葉としても、重ねて尋ねら

れたら魔法の鍵のことを打ち明けようかとも思っていたのだが、やっぱり言ってはいけな

い話のような気がして気後れしていたのだ。だから、雪江ちゃんの気遣いはとても嬉しく

て、心の中でありがとうと言った。

 お昼前にお弁当を食べて、砂浜で穴を掘ったりして遊んだ二人は夕方頃バスに乗って町

に帰ってきた。 家に戻るとお父さんの道具箱から目の細かい紙やすりを借りて来ると、

ポケットから鍵を出して丁寧に研いた。元々銅でできたこの鍵は思った程錆びもひどくは

なくて、何とか使えそうだった。

 飾り棚から宝箱を下ろすとひっくり返して底に付いているオルゴールのねじを一杯に巻

いた。机の上に箱を置き直してそっと鍵を差し込む。勢いよくふたが開くと懐かしいロン

ドンデリーの歌が響いた。ぶどう色のビロードの上には虹色のおはじきや、ガラスのかけ

ら、そして若葉が何より大事にしていた色とりどりのビーズと針金で作られた動物た

ち――きりんや亀やうさぎたち――が、つい昨日のように思えるあの頃と同じに光っ

ていた。

 「あら、懐かしいわね。」

 オルゴールを聞いてお母さんが戸口から顔を出した。

 「その鍵、失くしたんじゃなかったの。」

 「うん。でもまた見つけたの。」

 若葉はうわの空で応えながら、机の上に腕を重ねるとそれに頭をもたせかけてオルゴー

ルに聞き惚れた。



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