もうお日さまもしずみかけていたので、お母さんが病院にお願いを してななこちゃんとイダテンくんは病院に泊めてもらうことになりました。お父さんはまだ眠(ねむ)ったままでしたし、ちゃんと元気になったことを見とどけ たいと言って、イダテンくんも今日はすぐに帰るとは言いませんでした。
夜、お父さんのベッドのとなりに子供用のベッドをならべてもらっ て、ななこちゃんとイダテンくんは眠(ねむ)りました。眠る前にななこちゃんは海の話をおねだりしました。お父さんを起こさないように二人は、ひそひそ、 ひそひそ、ないしょ話をするように長いことおしゃべりをしていました。
次の朝、お医者さまが言っていた通りお父さんはすっかり元気になって、退院が決まったお母さんもいっしょに四人で家に帰りました。
とちゅうの八百屋さんでお母さんはどっさりイチゴを買いました。 そして家に帰るとさっそく、ななこちゃんの大好きなイチゴのタルトを焼いてくれました。お父さんは庭(にわ)にテーブルを出して、四人はすっかりあたたか くなった春風にふかれながら、焼きたてのタルトを食べました。
「それにしてもよくお医者さまを見つけることができたね」
お父さんは紅茶(こうちゃ)をイダテンくんに注(つ)いであげながら感心(かんしん)したようにたずねました。
「ぼくの目はとくべつなんです。どんなに速(はや)く走っていても立ち止まっているみたいにまわりの景色(けしき)がはっきり見えるんですよ。それにこのくつのおかげで前よりうんと速(はや)く走れるようになりました。このくつはやっぱりすごいです」
イダテンくんはだいじそうに、白いくつをなでました。
「五十四番目に通りかかった病院のまどから、あの先生の後ろ姿(すがた)が見えたから、すぐにそのまどから飛びこんで先生を背中(せなか)に乗せてもどってきたんです」
イダテンくんは『おいしい、おいしい』としきりに言って、三切れ 目のタルトをほおばりながら、こともなげにそう言いました。ななこちゃんはまたたき一つもしない間にそんなにたくさんの病院を走り回ったイダテンくんをす ごいなあと思いましたが、それよりも二枚(まい)目のタルトもあっという間になくなるんじゃないかと心配になりました。
「本当にお世話になりました。お父さんの韋駄天(いだてん)様(さま)にもよろしくお伝え下さい」
お父さんとお母さんは、レンガ色の門のところでていねいにおじぎをして、イダテンくんにお礼を言いました。
「どういたしまして、ぼくの方こそおいしいおかしをごちそうさまでした」
イダテンくんもおじぎをして、お父さんとお母さんにお別れを言い ました。ななこちゃんはまた、あの原っぱまでイダテンくんを見送りに行くことにして二人で森に入りました。ひさしぶりに見る森の木々はその色をぐんと濃 (こ)くして、はじめてななこちゃんがこの森に来た時とは別の森のように見えました。お日さまのスポットライトは、しげり始めた木の葉にさえぎられて、細 (ほそ)くこまかい光の輪をまばらにまきちらしていました。それでも日の当たらない木々のかげさえほんのりと温かいのです。
何かおしゃべりしたいんだけど――ななこちゃんはそう思いましたが、話し出したとたんにあの原っぱに着いてしまいそうで、二人はだまりこくって森の中を歩いて行きました。
やがて、モチの木のアーチの向こうに石垣(いしがき)が見えてき ます。アーチをくぐると、今日も石垣(いしがき)の階段(かいだん)が手をさしのべるように道を開いてくれました。一段(いちだん)、一段(いちだん)、 数を数えるように二人は階段(かいだん)を上りました。てっぺんまで上って目の前の原っぱを見たななこちゃんは息(いき)をのみました。
「とっくにかれちゃったと思ってた」
黄色い菜の花のじゅうたんが、今日も風にうねりながら光っていたのです。
「あれ、知らなかったのか?この野原は本当にある野原じゃないんだ」
「どういうこと」
「ななこのお父さんとお母さんが、菜々子(ななこ)っていう名前を つけた時に、ななこの心の中に生まれた原っぱなんだよ。だからいつだって菜の花がさいている。ななこが自分の名前をわすれでもしないかぎりな。けど、だれ かをこの森につれてきてもこの原っぱを見せるのはむりだ。だれも人の心の中を見ることなんかできないからな」
「ふうん。そうなんだ」
ななこちゃんはお父さんといっしょにこの菜の花を見ることができないと知って、ちょっとがっかりしました。
「ねえ。ちょっと遊んで行こうよ」
きっとまたことわられるんだろうなあと思いながら、ななこちゃん はイダテンくんの服のすそを引っぱりました。意外なことに、イダテンくんはすぐには返事をせずに考えこむような目になって菜の花の波(なみ)を見ていまし た。そして思いきったように『いいよ』とうなずいたのです。
「わあっ、じゃあかけこしよう。ななこだって速(はや)いんだよ」
はりきっているななこちゃんの顔を気のどくそうに見ながらイダテンくんは言いました。
「勝てっこないだろ。ありんこと流れ星が競争(きょうそう)するようなもんだ」
「じゃあ、うでずもう。おうちの手つだいしてるから力持ちだよ」
イダテンくんの細いうでを見ながらななこちゃんは自信(じしん)ありげに言いました。ところが、いざためしてみると、てんで歯(は)が立ちません。
「走るってのは足だけ強くてもだめなんだ。うでのふりがとびきりじゃないと速(はや)くは走れない」
得意(とくい)そうに言うイダテンくんを見て、ますますななこちゃんはくやしくなりました。
かくれんぼをしてもすぐに走り回って見つけられるし、石けりをし たらイダテンくんがけった石は遠くの空へ飛んでいってしまってお話になりません。木登(きのぼ)りをしてもななこちゃんが木に足をかける前に、イダテンく んは木のてっぺんから見下ろして笑(わら)っているのでした。そのくせ、息(いき)を切らせているのはななこちゃん一人でイダテンくんはへっちゃらな顔を しているのです。